ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

戸越銀座でつかまえて。

 仕事のことであれこれ考えなくてはならず、時間はあるのに余裕がない。そういうときは、とにかく好きなものを好きなだけじっくり読む。読んで、読んで、また読み返す。


 ついこのあいだ出たばかりの星野博美さんの新刊『戸越銀座でつかまえて』(2013年 朝日新聞出版)を、しつこいくらいなんども読み返している。
 これはすごい。ほんとうにすごい。普通ならあまり書きたくないような自らの来し方を振り返り、その心情を赤裸々に書いてしまう辺りはほとんど私小説。時々たじろいだりしながら読みつづけているうち、著者のことをますます好きになってしまった。


 この本の内容紹介を見てみると、「旅する作家が、旅せずに綴った、珠玉のエッセイ」とある。なるほど。だけど、どうだろう。たしかに物理的な旅には出ていないけれど、読んだりお話したりする限りでは、星野さんという人は年がら年中思考の旅に出っぱなしのようにおもえる。なんといっても、そこが魅力の人なのだから。


 《…もう一つよくするのは、迷子になる練習だ。わざと当てずっぽうに歩いて方向感覚をなくし、空や町の変化を見ながら家に帰る道を探す。これも続けていると迷子になるのが怖くなくなり、「迷ったらどうしよう!」という人生の不安が一つ減る。しかしこれらのことは、あくまでも静かに遂行することが大切だ。あまりおおっぴらにやると、世間からはへんだと思われる。》(星野博美 著「戸越銀座でつかまえて」)


 一望俯瞰しながら独特な視角で物事を切り取り、そこから顕微的に追求していく。そんな著者の思考の旅に、あてはない。さまよっている書き手よりも、地に足ついている(と思い込んでいる)読み手のほうがずっと不安になってくる。
 わざとあてもない旅にでて、わざと迷子になってさまよう。それは一見すると不安定な行動のようだけれど、その実は背後に揺るぎのない哲学があるからこそできる試みなのだとおもう。そのための不都合というのもやはりそれなりにあるのだけれど、著者のライフスタイルの上では大した問題にはならないようだ。いや、むしろその不都合さをプラスに活用しているからこそ、これだけの作品をいくつも世に出すことができるのだろう。


 人生の不安を減らすために、わざと迷子になる。これを散歩の途中で試してみるという人がほかにもいるのかどうか分からないけれど、物事を徹底的に調べたり考えたりするために、あえて未知の領域に身を投じてみるという人は少なくないようにおもう。そんな人いないよ、ということであれば、ぼくも世間からへんだとおもわれるタイプなのだろう。


 不安だとおもうことのほとんどは、経験不足や無知からくる。不安なら確かめられるうちにとことんやっておけばいいものを、なんだかんだと理由をつけてそれをしないからいつまでも不安がつづく。ようやく決心がついたとしても、場合によっては周囲からへんな目で見られることがあるし、近しい人から目くじら立てて止められることだってある。たしかに迷子になる練習というのは、あまりおおっぴらにやらないほうがいいみたいだ。


 近所の商店街のこと、八百屋のおばさんのこと、近所のおばあちゃんのこと、おもいっきり日常生活に立脚して語られる瑣末なことのなかに、著者のもつ深く凝縮された哲学がつまっている。観念的な世界に留まらない、圧倒的に正直な生活観がとにかく胸を打つ。
 きっとこの先も、ちょくちょくこの本を読み返すことになるだろう。笑ったり、じぃんとしたり、怒ったり、首を傾げたりしているうちに、いつのまにか考えるヒントを得られているような、そんな一冊だ。
 何も考えないということについて深く考え、何も考えずに明日は過ごそう。


 《人間は誰もがいつ死ぬかわからず、いま目の前にいる家族や友人と会うのはこれが最後になるかもしれない。しかし毎日そんなことを考え、会社へ行く夫を見送るたびに涙を流して別れを惜しみ、友人と会うたびに遺言を伝えていたら身がもたない。だから死については体よく忘れ、この日常が永遠に続くと思いこむこと。つまり何も考えないことが日常を穏便に送る秘訣だ。》(星野博美 著「戸越銀座でつかまえて」)

戸越銀座でつかまえて

戸越銀座でつかまえて