ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

ふつうの妥協点。

 ずっとやめていた煙草をまた吸うようになった。もったいない、とよく言われるけれど、ぼくにしてみれば休煙していたこの6年間のほうがもったいなかったとおもう。

 煙草そのものをガマンするのはなんでもないことなのだけれど、煙草を吸わないことでガマンせざる得なかった沈黙のことをおもうとぞっとする。それはふつうではないのかもしれないけれど、そういうふつうだってあるのだ。じぶんにとっての「ふつうであるためのルール」が崩れていると、どこかに歪みが生じることで見落としてしまう何かがあるような気がする。いつだってふつうに暮らすことだけを望んでいるのだけれど、ときどきふつうということがよくわからなくなる。

 ふつうじゃないかもしれないふつうのことを意識してみるとき、ぼくはふつうの人々のささやかな日常に光を当てた、上原隆さんの文章をたまらなく読み返したくなる。

《私は「人を楽しませる」ことが不得手だ。デートの計画を立てることができない。おいしい食事に興味がないし、情報誌を事前に読んだりする努力もしない。そういうことが苦手なのだ。だから、いつも彼女がデートの計画を立て、私はそれに従うことになる。正直なところ私が行きたいところといったら、本屋ぐらいのものなのだ。(中略)それに加えて私は「今を楽しむ」ことができない貧乏性なのだ。》(「二人でいる時にひとりになるには」/上原隆 著『にじんだ星をかぞえて』2009年6月 朝日新聞出版)

 市井の人の声に耳を傾けた上原さんのノンフィクション・コラムが好きなのだけれど、こうした上原さん自身の声に耳を傾けてみると、また別の意味での心地よさを感じることができる。じぶんだけだと思い込んでいたふつうから、もう少しだけ広い範囲での普通を手に入れたような心地よさ。だれにも同調なんて望んでいないので、こうして読み返すことだけでこの感覚を得られるというのがうれしい。ときどき引っぱり出しては、ほっとする。

 ぼくもかなりの貧乏性で、今を楽しめずに心だけどこか別の場所へとふらふら出かけてしまうことがある。見抜かれると「本屋さん行きたいんでしょ?」といわれる。

 二人でいる時にひとりになりたいなんていうワガママは、たぶんふつうではない。わかっている。でも、そういうワガママをふつうのこととして受け止めてくれるふつうもある。なんてことを云うと連れ合いに怒られそうだけれど、お互いにとっての「ふつうの妥協点」のようなものが付き合いの中には必ずあるのだとおもう。 その妥協点から大きく逸れてしまわないようにさえ気遣えば、案外うまくいくものなのだ。そうでも思わなければ、長くはもたない。

 きょうも数冊の本を買い、元気いっぱいになって家へ帰る。珈琲を淹れるのはぼくの仕事なので、お湯を沸かし、豆を挽いてから丁寧にハンドドリップする。彼女が「おいしいね」というのを聞いてから、ぼくはひとりになって本を読む。これがぼくらにとっての「ふつうの妥協点」であると信じて。

にじんだ星をかぞえて (朝日文庫)

にじんだ星をかぞえて (朝日文庫)