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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

理想の生活。

  今朝つくったおかゆの出来が、なかなかよかった。水と火の加減がよかったのかもしれない。うちで食べている福島のお米は冷えてもおいしいのだけれど、おかゆにしてもおいしいことがわかった。これなら体調に関係なく、普段おかゆを食べる習慣はないけれど、また食べたいとおもう。

 一昨日から、ぼくを除いた家族みんなの体調がわるい。お腹の風邪をひいたらしく、あまりものが食べられなくなっている。ぼく自身も絶好調とは言い難いのだけれど、なんとか身の回りの世話をしてやれるくらいには元気だ。家族というのはあまりに日常的すぎていて、こういうときにならないとなかなかありがたみを感じにくい。だから「ありがとう」なんてあらたまっていわれると、なんだかこそばゆい。

 五人が同じ屋根の下で暮らしているにしてはやけに静かな昼下がり、ゆっくり本を読みながら、いつものようにどうでもいいことをくだくだしく考える。

理想家というのは色々と結構なことを並べ立てて、そういうことを言った挙句に実現するのは、そのほんの僅かな一部である。(中略)併し我々が望んでも、とても適えられないことと思って、自分に対しても黙っていたことが、年月がたつとともに次第に自分の方に近づいて来るということはある。知らずに努力したのか、天から与えらたのか、遥か向こうにあったものが、いつの間にか自分とともにあることに気が附く。これが理想である。(「理想」/吉田健一 著『甘酸っぱい味』2011年12月 ちくま学芸文庫)

  大威張りで人に語れるような夢も理想も、ぼくにはなにもなかった。酒を飲んだり、本を読んだり、音楽を聴いたりしながら愉しくのんびり暮らしていくことができればそれでいいとおもっていた。いや、今だってそうおもっている。そのためには仕事をしなければならない。のんびり暮らすための生活をつくり、それを維持していくためには食い扶持が必要になる。仕事は食うためにするものであって、それ以上のなにものでもない。しかし、食うためだけにする仕事はつまらない。だんだんと嫌になってくる。ぼくの場合、嫌なまま仕事をしていると、仕事を終えてからの酒が不味くなる。本を読む意欲もなくなり、音楽が虚しく聴こえる。

 ある時期、ふと仕事のなかに愉しさをつくってみてはどうかとおもうようになった。じぶんの好きなことや得意なことを活かせる仕組みをつくって夢中で愉しんだ。今にしておもえば、それが許される職場であったことが大きい。そのうちに、いろんなことが見えてくるようになり、じぶんのやっていることに後付けの意義が生まれた。意義を得ると、仕事はもっと愉しくなる。愉しくなると、また別のものが見えてくる。見つけたものをより深く知るために、読む本の傾向も変わる。聴く音楽まで変わる。気がつくと、じぶんの生き方まで変わりはじめていた。それが理想と呼べるものなのかどうか分からないけれど、そうあってほしいと心から願うものが、じぶんのなかに生まれた。

 上に引いた吉田健一の言葉にもあるように、知らずに努力したのか、天から与えらたのか、遥か向こうにあったものが、いつの間にか自分とともにあるということは、確かにある。まだ実現とは程遠く、そのほんの僅かでさえも叶ってはいないけれど。じぶんの実行力のなさに時折り打ちのめされながらも、酒が旨くて読書の充実した暮らしはなんとか維持できている。

仕事をしていれば、自分に出来ることの限界も解って来る筈である。つまり、したいことは何でも皆してしまって、後は暇潰しにビヤホールにでも出掛けていくという境地、そこまで辿り着きたいので仕事をしているのだと、時々思うことがある。(「生きて行くことと仕事」/吉田健一 著『甘酸っぱい味』2011年12月 ちくま学芸文庫)  

  先日、大好きなひとたちと高円寺のペリカン時代で酒を酌み交わした。心が折れそうになっていたあの頃の話から理想の話まで、退屈な演説を延々と聞かせてしまったのではないかと、思い出してはひとり赤面してしまう。いつになく調子にのってしまうくらい居心地がよかったのだ。ペリカン時代も、あそこに集まるひとたちも、心地よい。ああ、そうか、ぼくの理想としている「ちいさなつなぎの場」ってこういうところだったんだ。今さらながら、目からウロコだった。

 一日もはやく、吉田流の境地に辿り着きたいものだとおもう。

甘酸っぱい味 (ちくま学芸文庫)

甘酸っぱい味 (ちくま学芸文庫)