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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

ストーナー。

 ふと振り返って人生について考えてみるとき、仕事と恋愛の占める割合、その比重がじぶんにとって決して小さくないことに気づく。それが溺レルほど夢中になって向き合うような対象であればあるほど、比重はどんどん増大する。

 柄にもないことを云うようだけれど、つまりは何かに対して深い愛をもつことが、みずからの人生に意味を見出す、ということにつながっているのではないかとおもうのだ。

 仕事も恋愛も、その対象に深い愛をもつようになると、より理解し、より学ぼうとおもうようになる。じぶんを高めるためのよい機会にもなるのだけれど、そこには深く愛しすぎるがゆえにじぶんを見失ってしまうというコワさもある。じぶんを見失うほどに没頭することで、じぶんの力を知り、じぶんが何者であるのかを覚る機会にもなるのだけれど、残念なことに、それはたいていずっと後になってから、というほうが多いような気がする。

若さのきわみにあるころ、ストーナーは恋愛を、幸運な者だけがそこへ至る道筋を見つけることができる究極の状態だと考えていたが、成人に達してからは、それは邪教の天国であり、おもしろ半分の不信心と、温かくなじみ深い軽蔑と、気恥ずかしい郷愁のまなざしで眺めるべきものだと思うようになった。中年を迎えた今は、それが単なる恩寵ではなく、幻想でもないことがわかってきた。それは、人間としての生成の営み、刻一刻、日一日、意志と知力と心性によって生み出され、更新されていくひとつの条件なのだった。(ジョン・ウィリアムズ 著/東江一紀 訳『ストーナー』 2014年9月 作品社)

 平凡な大学教師として生きるストーナーの平凡な人生について書かれたこの物語を読むと、不思議なくらい静かな気持になる。胸のうちがざわざわするような出来事が次々と起こっているにも関わらず、とても穏やかで静かな気持になる。主人公に据えられたストーナーの人生が、まるでじぶんのことのように静かに沁みいる。

 そんな静けさのなかにも、やはり痛みはある。ストーナーの愛と哀しみが全編に満ち溢れているのと並行して、対比するように書かれた妻のイーディスの愛と哀しみも行間に押し込められているのだ。向き合うことも同じ方向を見ることもなかった、そんな二人の最後までつづくすれ違いは、苦しくて静かに痛い。

 上に引いた、ストーナーが中年になってからの恋愛観を読むと、ストーナーの来し方行く末が垣間みえる。平凡だけれど波の多かったストーナーの人生のなかでも、特に大きめの波がきた時期であった。この波によってストーナーの人生は変わる。この変化がなければ、晩年の物語は辛くて哀しくて読みつづけるのがしんどくなっていただろうと想像する。誰の人生にも、きっと波はある。転向、非転向をくり返すその波のどこに反応するのかが、その人の生き方のカギになっていくのだろう。

 思い描いたような人生にはならなかったけれど、ストーナーの人生は決して不幸ではなかったはずだとおもう。むしろ、幸せな人生だったのではないだろうか。著者のジョン・ウィリアムズがインタビューでも語ってるように、やりたいことをやり、じぶんのしていることにいくらか適性があり、みずからの仕事が重要であるという認識をいくらかでも持てたのだから。そしてなにより、じぶんがどういう人間であったかを覚ることができたのだから。逆に、妻のイーディスがどんな晩年を送ることになるのか、ぼくにはどうにも気になって仕方がない。

 長くて短い人生のなかで、心の底から夢中になって向き合えるような仕事や恋愛と出合えることは、じぶんと向き合うための大きな機会や転機になる。最期にみずからを振り返ってみたとき、そうおもえるような出合いがあったとすれば、それはとても幸せなことなのかもしれない。 

 じぶんを振り返り、みつめる。そういう機会をくれる人生の一冊にまた出合えた。

ストーナー

ストーナー