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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

善悪の彼岸へ。

 目にも止まらぬスピードで日本が走っているのに、不思議なくらい世の中は静かなような気がする。静かすぎてこわい。こういう場所でこういうことを云うのは得意じゃないのだけれど、「戦える国づくり」に向かって急ピッチで国のトップが独走しているのに、世の中ってこんなに静かでいいの?とおもってしまう。このまま時が流れていけば、今の80歳以上の方たちが経験したように「ああ、やっぱりあの時からこの国は変わったんだな」と、ぼくらが現代を振り返ることになるのかもしれない。

……湾岸戦争は一方的に終結した。テレビ・ゲームのような戦争だった、飛び交うミサイルが夜空の花火のようだったという日本からの声も、あちこちで耳にした。その花火の下では、脳漿や内臓が飛び散っているのだ。そんな自明のことさえ視えなくなっているのだ。(中略)数百万の戦死者を出し、原爆で三十万人を殺され、東京を焼け野原にされていながら、まるでバーチャルな映像でも眺めるように戦争を見物していたのだった。決してホロコーストのことを忘れようとしないユダヤ人たちに比べると、異常だとしか思えない。ただの忘れっぽさ、健忘症とはちがうようだ。国中あげて、世界をリアルなものと感じられない離人症の感覚に陥っているのではないか。ぞっとするようなニヒリズム、あるいはシニシズムが感じられる。(「テレビ・ゲームのような戦争」/宮内勝典 著『善悪の彼岸へ』2000年9月 集英社)

 著者はこの本のなかで、日本の社会の内部に孕む病理やニヒリズムがなぜ蔓延してしまったのか、オウム真理教(麻原彰晃)の教義を徹底的に検証しながら考えていく。この教団に関する本はかなり読んでいるつもりだけれど、ぼくが強く興味を引かれた部分に対してストレートに応えてくれた最初の本が、宮内氏の「善悪の彼岸へ」だった。

 この本のなかで、信者の若者がこんなことを語っている。「この日本に何がありますか? 金と、セックスと、食い物だけじゃないですか」著者も云うように、これは後に自己同一化へと向かっていくこの集団に惹かれた最初の理由として、もっとも明快に言い表している言葉だとおもう。誤ってはいない。彼らが誤ったのは動機ではなく、グル(導師・教師)の選択なのだ。だからこそ著者は徹底的に教義を論破しにかかった。

 最近、身近なところでよくこんな言葉を耳にする。「自分で自分の国を守れないでどうするんですか。だから…」誤ってはいない。誤ってはいないのだけれど、ぼくはどうしても「だから…」の続きが気になって仕方ない。この国の選択はどうなのだろうか。グルではないけれど、この国の方向を左右する者の選択はどうなのだろうか。ちょっと強引すぎるような気がするし、そもそもこのブログの趣旨にも合わないので、これ以上はやめておく。

 冒頭で書いたような、静かすぎる世の中というのは、ぼくの気のせいなのかもしれない。または、単にぼくが世情に疎いせいなのかもしれない。でも、宮内氏が異常だと感じている部分を考えると、単なる気のせいだともおもえなくなる。知ること、考えること、想像すること、行動すること、目の前にあるものを通り越して、ずっと遠い向こう側にあるように感じてしまう。

 "Think global, act local" 地球的な規模で考えて、地域的に行動しよう。宮内氏の行動指針とのことだが、ぼくも常々そうおもっている。地球的規模とはいかないまでも、できるだけ大きな規模で考えられるように心がけ、じぶんの持ち場で出来るかぎりのことを精一杯がんばるしかない。

 それにしても、このスピードとリアリティのなさは尋常じゃない。どこへ向かって行こうとしているのか。

善悪の彼岸へ

善悪の彼岸へ