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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

うちのめされる読書。

 日中は暑さを感じる日が多くなったけれど、日が沈むとまだ肌寒い。掛け布団の調整がむずかしく、汗ばんだり、寒さで夜中に目が覚めたりと、睡眠が安定しない。それでも体調はすこぶるよく、身も心も平和な日が続いている。そういうときは、読書がはかどる。

 ここのところ、本当によく読めている。なにかに傾倒することなく、めったやたらになんでも読める。節操がない、そういう読書もまた愉しい。

 大好きな書き手の一人でもある上原隆さんがひどく肝銘を受けた、という小説を読んでみた。読み手の背景にあるものによってその感じ方も違ってくるものだけれど、やはり、間違いがなかった。やわらかな語り口であるにも関わらず、鋭く心に突き刺さる視点と感性で書かれており、ぼくはいっぺんにその作家を好きになってしまった。読了後、その小説も含め、立て続けに三冊読んだ。

 このまま本土決戦になって、銃剣一本で戦えと言われれば戦うだろう。でもなぜ戦わなくてはいけないのかはよくわかっていない。ぼくは一度もまじめにそれについて考えていない。一度も。戦うのも、訓練に耐えるのも、徴兵検査で肛門を開いて見せたのも、全部そうしろと言われたからにすぎない。何一つ、自分でしようと思ったことじゃない。だからといって何一つ、抗おうと思ったこともない。ぼくは何も考えていない。(中略)何を今さら。そんなこと、考えるのさえ億劫なくせに。

 ぼくの中の「ぼく」が苦々しげにつぶやいて、それきり黙った。「ぼく」の言う通りだ。ぼくは国家とか民族とか、そんなものにほぼ何の関心も無い。ただ、怖い目にあわずに、小さな安全を確保された場所で、ひっそりと自分の生活を守っていられればそれでいい。(西川美和 著『その日東京駅五時二十五分発』2012年7月 新潮社)

  どれもこれも心の真ん中にのしかかってくるような小説で、ぼくにとって三冊目となる「その日東京駅五時二十五分発」を読み終える頃には、しばらく立ち直ることができないのではないかとおもうくらいに、うちのめされていた。

 この作家の小説を読んでいると、人の心の奥底にある闇や業というものについて考えさせられ、うちのめされる。現在というのは、必ずそれを生む意識や行動を過去にもっている。賢さも、愚かしさも、過ちも、すべてが過去から現在へとつながっている。何を考えても、考えなくても、それは変わらない。現在が過去へと変わっていく未来でも、それは変わらないだろう。そして、それに気づかせてくれるのは、おそらく過去でしかない。

 上に引いた「ぼく」は、ぼくでもある。ぼくも何も考えたことがなかったし、それに気づいたからといってどうだというのだ。小さな安全を確保された場所で、ひっそりと自分にできることをやれればそれでいいとおもっている。でも、このことに気づいた「ぼく」と、気づくことのできない「ぼく」とではまったく違う人生になるのだろうともおもう。「ぼく」のたどり着いた、考えるという場所に居つづけられる限り、ぼくは決して忘れない。

 たどってきた道は、過去に多くの人たちによってたどられた道でもある。人生は、じぶん一人のものではない。じぶん以外の存在に気づき、認め、愛し愛されるものであると現在のなかで感じられること、それが人生であるとするならば、忘れられ、葬られていく過去の上には人生なんてないのだろう。

 うちのめされた頭で、ぼくはそんなことを考えた。

その日東京駅五時二十五分発 (新潮文庫)

その日東京駅五時二十五分発 (新潮文庫)