だらだらと本を読む。
日曜日。いつもよりゆっくりめに起きて珈琲を淹れ、パジャマのまま、だらだらと好きな本を開く。
昨日の夜から読みはじめた荻原魚雷さんの新刊『書生の処世』(2015年6月 本の雑誌社)を読み終え、ふと時計を見ると昼になっている。もうこんな時間かとおもいながら、甜麺醤たっぷりのジャージャー麺をつくって子どもたちと一緒に食べる。
午後から末っ子さんと散歩がてら、近所の新古書店へ。店内をぐるぐると三周くらいして、単行本一冊に絵本を二冊購入。帰ってから子どものベッドでごろごろし、長らく読みかけのままになっていた本を開いたつもりが、いつのまにか寝てしまう。
外から帰ってきた長男に揺り起こされ、ふらふらしながら川縁でキャッチボール。ほんの一時間くらいで汗びっしょりになり、またふらふらしながら家路を急ぐ。
シャワーを浴びてから冷たいビールを呑み、夕飯ができるまで書きものをする。生姜焼きで一杯やり、お腹も満たされ、ほろ酔い加減になったところで湯船に浸かる。古いアメリカのロックを聴きながら汗を流し、まだ身体がほかほかしているうちに、氷いっぱいのグラスで焼酎を呑む。書きものの続きをしてから、どこまで読んだのだかわからなくなってしまった読みかけの本を開く。活字が追えなくなるところまで呑んで読み、こんどはラジオを聴きながら仕上げに呑む。
毎日、起きたら、珈琲を飲む。
その味で体調がわかる。疲れがたまっていると味覚がにぶる。そんなときは二度寝をする。気がつくと、夕方になっていることもある。部屋の掃除と洗濯をすませ、近所の古本屋をまわり、喫茶店にはいる。わたしは無意味かつ怠惰な時間が好きである。ひまと金さえあれば、ひたすらだらだらと本を読んでいたい。(「トップアスリートの病」/『書生の処世』)
だらだら過ごしているつもりでも、その「だらだら」がパターン化してくると、あまりだらだらした気になれない。もっとだらだらしたい。もっとだらだらと本が読みたい。もっとだらだらと酒が呑みたい。そうした無意味かつ怠惰な時間には、じぶんを素に戻してくれるという立派な効能があるのだ。
妄想の世界で、ぼくは連れ合いに向かっていう。「いいか。男にはな、仮面を捨て去ってただの男に戻る時間が必要なんだよ。そういう時間があるからこそ、明日もまたいい仕事ができるんだよ。だから、もっとだらだらさせろよ」そんな昭和すぎる御託をならべてみたところで、現実世界では「もう十分でしょ?」と言われてしまうだけだろう。
妄想の世界だけにとどめておく。