ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

いちべついらい。

 少し前に、詩人・田村隆一の妻、田村和子さんをスケッチした、「いちべついらい 」(橋口幸子 著)という本が夏葉社から出ると知り、今か今かと心待ちにしていた。

 いまから4年くらい前に読んだ、詩人・北村太郎のことを描いた「珈琲とエクレアと詩人」(2011年 港の人)という作品で著者のことを知り、乾いているようでやわらかく、ただじっと見つめて描くその文章に、心惹かれた。

 先日、ようやくその本が手元に届いた。文字通り小躍りしたあと、武田花さんの素敵な写真をひとしきり眺めてから、大切にゆっくりと読みはじめた。

 一時間もあれば読み終えてしまうくらいの量なのだけれど、そのあまりの重たさにぐったりとした。面と向かった著者の思い出ばなしにじっと耳を傾けているようで、読んでいる途中、視線を逸らすことも、寝転がることもできなかった。このまま読みつづけていてもいいのだろうかと、なんども逡巡した。

 田村和子さんとの生前・死後の関わりのなかで徐々に心のバランスを崩していく著者の胸の内を想像し、ぼくは心臓をわしづかみにされたような気持ちになった。「田村和子さんのこと」を語るいっぽうで、ページを繰るごとに「橋口幸子さんのこと」が少しずつ際立ってきて、人ひとりの重さを受け止め、湧き起る様々な感情と葛藤し、それを背負うということ、また降ろさなければならなかったことの苦しさが、痛いほどに感じられて胸に迫る。

 「いつもいってました。絶交されたということを」と、お世話をされていたという方がいった。

 なんとなく居心地が悪かったが、わたしは、「そんなことじゃなかったんですよ」と、穏やかにいった。(橋口幸子 著『いちべついらい』2015年5月 夏葉社)

  著者がどんなおもいで書くことを決めたのかはわからないけれど、書くことでしか消化できない何かがあったのかもしれない。「そんなことじゃなかったんですよ」と穏やかにいったその胸の内に、そのきっかけの一つがあったのではなかろうか。

 他人には、本当のところはわからない。だからこそ語るのだけれど、それが本当に伝わるのかどうかもまたわからない。だから、そこにはある種の覚悟と勇気がいるのではないかとおもう。誰かに向かって思い出を語るとき、そこには「放すことのできるもの」と「引き受けなくてはならないもの」の両方があることを覚悟しなくてはならない。そういう意味でも、この「一線を越えてしまった人間関係の思い出」を読むことの重たさは、並大抵なことではないとおもう。

 壊れてしまいそうなくらいにやわらかく、それでいてとてつもなく重たいこの物語には、すぐそこに在るような近しさもある。人生という、いくつもの断片で構成された物語の一片としては、それほど遠くかけ離れた世界のものではないとおもう。だからこそ余計に胸に迫るのだけれど。

 これから少しのあいだ、本棚のなかで休んでもらうことになりそうだけれど、また手に取ったときには、「いちべついらい、ご無沙汰してました」と、昨日会ったばかりの友人のように向き合うことができそうな気がする。大事な一冊として。

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