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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

生活のなかの鶴見俊輔。

 道に迷ったときや、自らを振り返ってみるとき、ぼくは鶴見俊輔さんの文章をよく読み返す。じぶんが何者で、なんのために、なにをしようとしていたのかわからなくなると、書棚から引っぱり出す。その頻度は、少なくない。生活のなかには、いつも鶴見俊輔さんがいる。神社にある鏡のような存在として。

 わたしは思想を、それぞれの人が自分の生活をすすめてゆくために考えるいっさいのこととして理解したい。それは、断片的な知識とか判断からなりたっているものだが、おのずから全体をつらぬく傾向あるいはまとまりをもっている。その細部に注目するのでなく、全体のまとまりに注目する時、とくに「思想」とよばれるような対象がはっきりあらわれるのだと思う。人は自分の私生活について考える時にも、人間とはだいたいこんなもんだ、とか、社会とはこうあるべきだ、という一般論を避けることはできない。(「思想」/鶴見俊輔 著『日本の百年』昭和41年 社会思想社)

 たとえば、なぜこの道(仕事)を歩みつづけているのか、ときおりわからなくなる。わざわざ苦手な人間関係に主軸をおくような道を選び、なんども転んでいるにも関わらず、あいかわらずこの道に立ちつづけている。その時々で場所や方法や条件が変わるのだけれど、根っこのぶぶんは変わらないこの道をずっと歩いてきた。いまさら、まったく別の道を選ぶことのしんどさというのが確実に影響しているのだろうけれど、おなじ道であっても現状の画一性のレールを辿ることは耐え難いというめんどうな一面もある。ぐるぐると出口の見えない迷路にまよいこんだとき、具体的なヒントを得ること以上に、そういう自分をとことん掘り下げていくことが、結果的にその先の推進力につながっていることが多々ある。

  変化と共にじぶんの態度も水のようにカタチを変えてはきたけれど、その変化の底を支える信念のようなものだけは、いまも変わらずここに在りつづけているようにおもう。いや、態度も信念もすべてが変化していくのだけれど、その根幹だけが残った状態で新しい思想が生まれる、ということなのかもしれない。

 これまで、なんども心が折れそうになることがあったけれど、そんな自分を支えるものはやはり自分しかなかった。自分なりの思想によって支えられてきたのだ。心にロックを抱いて、直感にしたがって思うままに行動する。なんども転んで心が折れそうになって、その度に反省をくり返し、いつしかそれが自分の生きかたをかたちづくってきたようにおもう。そういった、生活のなかで少しずつまとまりをもっていったものが、自分なりの思想とよべるようなものになっていた。

 思想はまず、信念と態度との複合として理解される。(「転向研究、転向の共同研究について」/鶴見俊輔 著『鶴見俊輔著作集2』1975年 筑摩書房)

 まだまだわからないことだらけで、あたまのなかは混沌としているし、きっとこの先だってまよいっぱなしの人生なのだろうけれど、生活のなかに鶴見俊介という人がいてくれると、少しだけ安心できる。

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