ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

じぶんの持ち場。

 まいにち本ばかり読んでいて、あたまでっかちにならないのかと訊かれることがあるけれど、たぶんなっているとおもう。少なくとも、思弁的な枠組みと他力本願につくった仕事上の仕組みがぶっこわれて、じぶんもぶっこわれそうになったあの日までは。

 どちらかというと、生活全体をプラグマティックに考えて実践してきたつもりだったのだけれど、その日を契機にじぶんに対して大きな誤解をしていたことに、はたと気づいた。いまでこそ、それはじぶんにとっての大きな転向の機会となり、とてもありがたいこととして受け止められるようになったのだけれど、そうなるまでにはずいぶんと時間がかかった。

 困難や失敗のまっただなかにあっても、そういった一つひとつの経験のなかにある、その経験だけがもつ独特の意味を全身全霊で汲みとろうと努めれば、そこから新しい発見や可能性を見つけることはできる。努力さえ惜しまなければ、きっと成長にもつながっていく。なんとかして生きていくというのは、学びの連続なのだ。

 立派な考えは本の中にある、と思うのがソモソモ間違ってるんだなあ。水晶のように綺麗に結晶したものは、本の中に収まり易いかもしれない。しかしオレが魅力を感じるのは田んぼの泥のような思想だ。あらゆるものを受け入れ、こやしにし、乾けばホコリとなって空へ舞い上がり、雨ふれば田んぼへたまる、そうした思想だ。水晶は美しいけれど生命をはぐくまない。田んぼの泥は、きたなくっても、矛盾していても、生命をはぐくむ力をもっている。(「わがへらめき」阿伊染徳美 著/『わがかくし念仏』1977年11月 思想の科学社)

 田んぼの泥のような思想。とても魅力を感じる。世の中がどんなに変化しようとも「じぶんの持ち場」で踏ん張って考え、実践していくということはとても大切なことだとおもう。一般的な大衆にとっての変化とは、世の中がどうこうということよりも、じぶんのおかれている状況や身近な場所がどう変化しているのか、ということなのではないかとおもう。少なくともぼくのまわりではそんな感じで、肌身で感じない限りは世の中に在って世の中にはない。生活に即した思想と身近な場所での行動は、そこで暮らすものの維持や変化に対応し、また新しい変化を生みだすこともできる。

 物事に対して俯瞰して考える訓練をし、それを肉体的な反射として行動に移せるかどうかというのには、いろいろな方法があり、いろいろな場所がある。その場所のひとつとして「じぶんの持ち場」というものがあり、そこで考えていくためのひとつの方法として「田んぼの泥のような思想」がある。岩手県の「ムラ」を支えてきたこの思想がいいとか悪いとかというのではなく、じぶんの仕事を考えていく上でのひとつの方向として、とても興味深く読んだ。そういったぶぶんを抜きにしても、単純に読み物としてめちゃくちゃおもしろい。

 とにかくいまは、思考と実践を交互に見比べながら、じぶんの持ち場で踏ん張るための態度を日々養っている。あたまでっかちにならぬよう気をつけながら。

わがかくし念仏

わがかくし念仏