ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

オーバー・フェンス。

 先日、調子がよかったので、もう何年ぶりなのかもわからないくらい久しぶりに連れ合いと二人で新宿まで映画を観に行った。映画のタイトルは『オーバー・フェンス』。大好きな作家、佐藤泰志の小説を原作とした映画で、この作品が映画化されることを知ってからずっとずっと心待ちにしていたのだ。『海炭市叙景』『そこのみにて光輝く』に続く函館三部作の最終章で、同じ作家の作品が相次いで映画化されるという奇跡だけでも魂が揺さぶられるのに、メガフォンをとったのが山下敦弘監督(『どんてん生活』や『リアリズムの宿』が好き)ということで、当日にはもう思いがこらえきれなかった。

  映画の『オーバー・フェンス』では、主人公の白岩(オダギリジョー)が惹かれていく彼女・聡(蒼井優)の人物描写に広がりがあり、小説では描かれていない新たな内面もグーッと掘り下げて描かれている。また、白岩が聡に惹かれていく過程をふくらませたことで、「フェンス」がより具体的なものとしてイメージできるようになっており、オリジナルな脚本が功を奏しているようにおもう。聡がいてこその映画『オーバー・フェンス』となっている点では、小説とはまた違った物語として楽しむことができる。

   「空っぽな男」を演じるオダギリジョーの豊かさに若干の不満は残ったものの(映画的にはそのくらいがちょうどいいのかもしれないけれど)、蒼井優の演じる「ぶっ壊れた女」がともかく素晴らしく、とくに鳥たちの動きを真似るいくつかのシーン(求愛の舞)には心を奪われた。笑って、泣いて、思いを馳せて。総じて、ぼくにとっては期待を上回る素敵な映画だった。

 佐藤泰志の小説にはいつも佐藤泰志が出てくる。と、ぼくは思っている。いつだってギリギリを抱えた登場人物たちが、あっちこっちでもがいている。彼だったり、彼女だったり、僕だったりするギリギリな佐藤泰志は、息苦しさを感じる箱庭のようなものの中で、恋をしたり、酔っ払ったり、暴れたり、泳いだりしながらもがいている。いくらもがいても、その先に進むことができない。ここではないどこかを求め、あのフェンスを越えたいと願う。

 僕には見えた。外野のずっと向こう、まばゆい光を受けたフェンスが。それは何ヶ月か、何年かたたなければ手に触れることもできないほど遠く、高く、真新しくそびえたつ、フェンスだった。どうすればそこまでたどり着くことができるのか見当もつかないほど、遠い幻のフェンスだった。(中略)僕自身の力で越えなければならないものに向かって、力をみなぎらせる。僕はバットを振り抜いた。(「オーバー・フェンス」佐藤泰志 著/『黄金の服』平成元年9月 河出書房新社

  ぼくは今年、佐藤泰志が自ら命を絶った年齢となった。直接に彼を知らないぼくが、小説の中に出てくる彼を知ってから20年以上が経つ。この何年かのあいだに、ぼくは彼の見たであろう「まばゆい光を受けたフェンス。どうすればそこまでたどり着くことができるのか見当もつかないほど、遠い幻のフェンス」をリアルに感じることができるようになった。フェンスにたどり着くことはできただろうか?できたとおもう。手に触れることはできただろうか?できたとおもう。フェンスを越えることはできただろうか?できたとおもう。でもその先には、真新しくそびえたつ別のフェンスがあった。

 あとどのくらい生きられるのだろう。残された時間のなかで、ぼくはバットを振り抜くことができるのだろうか。そんなことを考えてみるのだけれど、それは決して暗い気持ちからくるものではなく、またやってくるであろう明日をイメージするための原動力なのである。

 バットを置くにはまだ早かったんじゃない?同い年となった彼にそういいたい。

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