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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

佐野洋子さんのこと。

僕は佐野洋子さんが好きだ。好きだといっても会ったことはない。会ったこともないのに好きだというのも変だ。だから会いたい。でも、もう会えない。永遠に会えない。せんない。佐野さんの書くものは、ひとをそういう気持ちにさせるだけの何かがある。
 
佐野さんは、去年の11月にガンで亡くなった。まだ72歳だった。好きな人が「自分の住んでいる世界からいなくなる」というのは淋しい。いなくなる時期が早いとよけいに淋しい。逆に逝くべきときに逝けないというのも淋しいのだけれど。どちらにしても、好きな人がこの世の境界線を行ったり来たりするのは淋しい。好きな人がいなくなってしまうと、ひとりぼっちで「かくれんぼ」をしているような気持ちになる。お誕生日会のあとの淋しさにも似ている。ぽつねんと淋しい。佐野さんは笑うだろうか。
 
佐野さんというと、猫が輪廻転生を繰り返していく絵本の名作「100万回生きたねこ」が有名だけれど、僕は佐野さんの書くエッセイが好きだ。たぶん、どれもみんな読んでいて、たいていは何度も繰り返し読んでいる。佐野さんのエッセイを読んでいると、佐野さんがとっても近しく感じられてくる。実は近所に住んでいて、ひょっこり道端で出会ったり声をかけられたりしそうな、そんな気がする。佐野さんは飾らない。いやらしくない、ずるくない、かわいい。あるいはぜんぶ反対なのかもしれないとも思う。


佐野さんは山あり谷ありの人生を送っている。誰にだってそのくらいの苦労話はあるだろう、という以上の経験をしている。それでも佐野さんは、何もなかったようにあっけらかんとしている。少なくともあっけらかんとしているように読める。決して「前向きなひと」であろうともしていないし、その裏返しの感情を無理して書いているようにも思えない。じゃあ、どんな人なのか。そんなこと会ったこともないのに分かるはずがない。自分の嫌いな野菜は置かないという変な八百屋や、いつも怒ってばかりいる偏屈な文房具屋に照準を合わせ、尚且つそれを愛するというところが佐野さんらしさのような気がする。ウツ病だったり、方向音痴だったり、韓流ドラマにはまったり、立派な人の前向きさに落ち込んだり、ジャガーを買ってボコボコにへこましたりするところが、猛烈に佐野さんなのだと思う。一番好きなエッセイ集『役に立たない日々』を読む度に、会ったこともない佐野さんを身近に感じ、わかった気になり、果てはどんどん好きになっていく…。

役にたたない日々

役にたたない日々

自らの後ろ向きさと老いへの戸惑いの間で生きる最晩年の佐野さんは、とっても潔い「生」を送っているように見える。乳ガンから骨転移し、医師から余命宣告を受けることになるのだが、そこからがとっても潔い。天真爛漫に過ごしたいという佐野さんにとって、余命をはっきりさせることのできるガンという病気は、「最期にぴったりのシチュエーション」だったのかもしれない。人によっては、「余裕」というのも実は大きなプレッシャーの一つとなる。余命宣告を受けたことで何十年も苦しまされたウツ病が消えたというのは、「後ろ向きという、一見すると緩やかな生き方に見える力み」からようやく開放されたからなのではないかと僕は思う。元気と笑いに満ち溢れた佐野さんのエッセイの向こう側に、そこはかとない哀しみを見て取ってしまうのは僕だけだろうか。


誰だっていつかは死ぬのだから恐くなんてないという佐野さんも、親しい者の死は恐いという。「死の意味は自分の死ではなく他人の死なのだ」というこの一文を読んだ時、僕は自分にとって最も近い死生観をみたような気がした。かくれんぼの途中で断りもせずにやむなく帰らざるを得ない者は、なんともいえない切なさと後悔を覚えるだろう。そしてなにより、「残された者の気持ちを慮れる」ということが重くのしかかってくるのだ。気が付いたらとり残されていた者の淋しさや悔しさを遥かに上回るくらいに…。佐野さんはどんな気持ちで最期を迎えたのだろう。


最後に、僕の好きな佐野さんの言葉を書きとどめて終わりにしたい。
 
「人はいい気なものだ。思い出すと恥ずかしくて生きていられない失敗の固まりの様な私でも、私の一生はいい一生だったと思える。本当に自分の都合のいいようにまとめるのは私だけだろうか」