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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

行きつけ。

独り者の頃は行きつけの店を持っていたが、家族ができてからというもの、すっかり「行きつけ」とは縁遠くなってしまった。ぼくの場合、基本的に家が一番好きで、一番ほっと心の休まるところだったりするのだが、男たるものやっぱり「行きつけ」の一つや二つは持っておきたいものである。


言葉の魔術師といわれた井上ひさしのエッセイ集に、『本の枕草紙(1982年11月文藝春秋社刊)』というのがある。与太話ふうの読書エッセイが詰まった愉しい一冊で、この中に「行きつけの」というエッセイが収録されている。昨晩このエッセイ集を寝読用の本に選び、パラパラと面白おかしく読んでいたら、自分にとって「行きつけの」と呼べるような場所が少なくなっていることに思い至った。以前は、呑み屋、レコード屋、喫茶店、釣具屋、食堂などに行きつけていたが、連れ合いと子どもができたことでそのほとんどは縁遠くなった。このように書くと余裕とか自由が奪われたように聞こえてしまうかもしれないが、実際には奪われたのではなく興味を失ったのだ。いや、違うかな?自分の満足感を満たす「器」が以前と比べて凝縮され小ぶりになったと云ったほうが適切か…。いずれにしても、色々な意味での範囲が狭くなった今のぼくにとって、「行きつけの」と呼べるような場所といったらあそこしかない。そう、もちろん本屋さんである。



井上ひさしさんは、行きつけの中でも「とりわけ本屋さんはいい」という。行きつけの本屋さん。ぼくも全く同感だ。店員はせいぜい2名程度の、いわゆる町の本屋さんという風情が大変好ましい。雰囲気が五月蝿くないのと、人いきれに疲れてしまうぼくのような者にとって、大型の書店よりも小さな本屋さんのほうが性に合っているのだ。そのような行きつけの本屋さんというのを、ぼくは3軒ほど持っている。本屋さんと古本屋さん。ほぼ毎日のようにぶらりと入って手ぶらで出る。もちろんめぼしいものがあれば買う。お店のどこにどんな本が置いてあるのか、たいていは頭に入っているので、めぼしいものがあればすぐにピカリと光って見えるのだ。
行きつけの古本屋さんとは、よく話をする。本の話が8割くらいで、あとは世間話。買うことよりも話すことに夢中になってしまうこともあるくらいだ。逆に、本屋さんの場合は忙しすぎて話をしている暇などない。次から次へと仕事に追われていることがよく分かっているので、よっぽどのことがなければ店員さんに声など滅多にかけない。いや、かけづらい。やむをえず探している本について訊くことはあっても、話し込むということはまずない。でもそれでいいのだ。行きつけたくなるような本屋さんは、せかせかと忙しくしていてもらわなくては困るのだ。古本屋さんの棚だって一ヶ月間まったく動かなかったら飽きてしまうが、ましてや新刊の本屋さんの棚がまったく動かなかったら足繁く通う価値などない。とは云っても、小さな町の本屋さんにも色々な事情があって、素早く仕入れて並べたくても並べられない現状があることは分かっている。だからぼくはできるだけ気長に待つことにしている。今買わなきゃ死ぬわけでもないなら、後で買ってもいいわけで、この本なら入ってくるであろうという予測に基づいて待つ。入る見込みのない小さな出版社さんの本やリトルプレス以外は気長に待ち、待っても待っても駄目な時にようやく大型書店に行くようにしている。ネットでは滅多に買わない。だってこれ以上、行きつけを失いたくないから…。


ぼくは自分の中に勝手な「行きつけのルール」みたいなものを設定している。古本屋さんの場合は、よっぽど買えない場合を除いて「義理でも必ず一冊は買う」ようにしている。新刊本屋さんの場合は、前述したように「待つ」ことにしている。よっぽどの急ぎでない限りはそこで買う。自分の町の行きつけの本屋さんで買う。それが行きつけにさせていただいている礼儀だと思っている。もちろんこれは自分の中にある勝手なルールなので、先方の思い及ぶところではない。だから行きつけを愛でながら通い続けられるのだ。今日はどんな本が入っているのかな?入っていなかったら何を買おうかな?この本を(自分の欲しい本を)入荷する気はあるのかな?いつまで待ってみようかな?そんなふうに、自分の決めたルールで勝手に縛りを入れながら「行きつけ」を愉しむ。行きつけとはそういうものだ。これって、ちょっと粋だよなあ…などと、ひとりごちる。


待てる本は、待つ。町の本屋さんで買える本は、町の本屋さんで買う。粋を愉しむ。