ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

モノに宿るココロ。

子どもが三人生まれ家族は五人となり、今のままではキュウクツになってきたので、クルマを買い換えることにした。さっそくクルマ屋さんへ行き、クルマの性能や価格のことなどについて丁寧に話を聞き、ずいぶんと時間はかかったのだけれど大体の目星がついた。さて、じゃあうちへ帰ろうかと、店を出てクルマを走らせたのだけれど、車中で連れ合いと新しいクルマの話をしながら走っていたら急にクルマが泣きだした。きゅーんきゅーんと泣きだした。どうやらこのまま走り続けるのがもうイヤになったらしく、アクセルを踏みこんでも少し前の軽快さがなく足どりが重い。それでもどうにかこうにか走ってはくれて、ちんたらしながらもやっとうちへ辿りついた。ホッとしてクルマから降りると、ぼくら夫婦はほぼ同時に顔を見合わせこうつぶやいた。もうすぐさよならするの、きっと分かったんだね、と。


今のクルマは沖縄で暮らしていた頃に買ったもので、かれこれ8年くらいは乗っている。連れ合いと一緒に選んだこのクルマに乗って、ぼくらは陽気に沖縄のハシからハシまで走りまわったものだ。それからそう時間を置かずして、ぼくらは三人の子宝に恵まれた。このクルマで産婦人科に通って、このクルマに生まれたての赤ちゃんを乗せ、このクルマでおっぱいを与え、このクルマでオムツを交換したりもした。時にはクルマに酔った子どもたちがガマンしきれず、うううっなんてこともあった。泣きたいのに泣く場所がなくて、このクルマの中で男泣きしたこともある。うたの練習をしたり、けんかをしたり、ご飯を食べたり、家族や友人やたくさんの荷物を載せてこのクルマは走り回ってくれた。それでもクルマに対して、モノとして以上に考えたり想ったりしたことはなかった。あって当たり前だとおもっていた。それに子どもが三人もいると、キレイに乗り続けるなんてことは難しい。我が家もそうなのだけれど、片付けるそばから散らかすし拭いたそばからこぼされる。汗と涙と鼻水と泥にまみれた身体で転げまわられると、だんだんもうどうでもいいような心もちになってくる。ほっとけ、なんて。それでも変わらず元気に走りまわってくれるクルマだったのに、いい加減なキモチできちんとメンテナンスしてきてあげなかったばっかりに、きゅーんきゅーんと泣かせるような結果となってしまった。本当に申し訳ない。昨晩ボンネットに手を当てて、この数年間の思い出を胸に、ふかくふかく心からお詫びした。


人工知能とかなんとか、そんなSFチックな話ではないのだけれど、モノにもココロはあるとおもう。きっとなにかを感じているとおもう。妖怪や付喪神(つくもがみ)の出てくるような古いあやかしの本を読むと、万物には魂が宿ることがあると記されている。身近なところで考えてみても、古いもの、大切にしていたもの、思い出の詰まったものに対して、ただのモノ以上の価値や魅力を感じる人は少なくないとおもう。捨てるにはしのびないという感覚もそんなところだとおもう。日本のあちらこちらに碑や塚や供養塔があるというのは、日本人の多くが遥か昔から唯物論では割りきれないココロのようなものを感じてきたからだろう。ココロが宿り、ココロを感じる、それは何に起因するのか。きっと感謝のキモチなんだろうなとおもう。自分の身体の一部のように働いてくれる道具やモノを、安全に長く使うためには感謝のキモチをもって手入れすることが大切だ。そういうキモチがモノにココロを与え、それを感じる者にはなんらかのカタチ(現象)となって返ってくるのではないだろうか。事故もなく安全に快適に働いてくれたクルマに対して、ぼくはそういうキモチをもって乗っていたかどうかと問われれば、深くアタマを下げて反省するしかない。気づくのが遅くなり、本当に申し訳のないことをしてしまった。


あと数日の付き合いとなってしまったけれど、反省と感謝の意味をこめてピカピカに洗って磨いてあげたいなと、おもっている。今まで本当にありがとう。多謝。