ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

本を読む理由。

先日、本をつくる仕事をしている人たちとお酒を飲んでいて、なんで本なんか読むのか、というような話になってそこそこ盛り上がった。


それはもちろん本が好きだからに決まっているのだけれど、このあいだもこのブログに書いたように、本を読むとき、ぼくはもうちょっとナントカなりたいなとおもって読むことが多い。書き手がどんなことをおもい、どうやってそこからここへ来たのか、その過程で起こるキモチの変化や支えにしていることなどが知りたいとおもって本を読んでいる。物事に関する包括的な観念なんてどうでもいいし、哲学的な根拠なんかもぜんぜん求めていない。ほしいのは、ともかく書き手のキモチの揺れの部分。小さな揺れ大きな揺れ、できるだけ飾らずにストレートに、人生の分岐点(人によっては毎日が分岐点)でのキモチの揺れを細かく丁寧に書いたものが読みたい。ただそれだけ。そんなふうだから、かなり偏った変な読み方をしているとおもうし、ピントが違えば数行ですぐに厭になって投げ出すし、バチッとハマると繰り返しなんどもなんども読み返すしで、かなりマニアックでオタクっぽい人(憧れてはいるが、残念ながら真のオタクにはなりきれていない)だなあと、自分でもおもっている。


ぼくは、飾れない、飾ると「らしさ」をつくれない、それしか書けないのでそればっかり書いている、そんな書き手が大好きだ。そういう不器用さこそが(計算された不器用さも含めて)書き手の大きな魅力なのだとおもっている。そういう本に出合えないとぼくのココロはしわしわと萎んでしまうので、必然的にそういう作家のそういう本に感度を合わせてアンテナを動かすことになる。他人から見れば、くだらない、つまらない、めめしい、にんげんしっかく、めんどくさい、おもたい、かるい、そんなふうに映るのかもしれないけれど、ぼくはそういった本たちとの新たなる出合いを求めて、このオタクっぽいアンテナを頼りにせっせと書店へと足を運んでいるのだ。


さっき電車の中で買ったばかりの文庫本を読んでいたら、そこに挟まっていた栞にこんなことが書いてあるのを見つけた。

人間を味わう
人生を考える。

そうそう、まさにそれなんだよね。