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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

荒地の恋。

荒地の恋ねじめ正一 著(2007年 文藝春秋)」という、詩人の評伝のような味わいのフシギな小説を読んだ。中央公論文芸賞を受賞しているこの作品、文学好きなひとの間でも当時からずいぶんと話題になっていた。買いそびれたまま数年が過ぎ、2年くらい前に文庫化されたので買ったのだけれど、読もう読もうとおもいながらそのまま積ん読。そして先日、ふとおもいたって蔵書の整理をしていたらどうにも心にひっかかり、ようやく今頃になって読みはじめたのだった。


男は恋をすると詩人になる。では、詩人が恋をするとどうなるのだろうか…


実在する荒地派の詩人、北村太郎田村隆一鮎川信夫を中心とした、どうしようもない人たちによるどうしようもない恋愛事情。不倫だの駆け落ちだの、大人の恋愛事情としてはそこいらへんに転がっているようなありふれたものなのだけれど、中高年になってからの恋愛のモツレには一種独特な重さがあり、そこへ詩人のもつ感性と言葉が加味されることによって、そこいらへんの恋愛小説とは一線を画している。それ以上のなにかを感じられるかどうかは、ここにでてくる詩人とその周辺のひとたちが好きか、詩が好きか、この手の話が好きか、などによって大きく変わってくるだろうけれど、いずれにしても滋味ぶかい小説だとおもう。イッキ読み必至。

荒地の恋 (文春文庫)

荒地の恋 (文春文庫)

北村太郎というと、港の人からでている『珈琲とエクレアと詩人/橋口幸子 著(2011年)』のイメージ「湘南近辺でひっそりと暮らす駄々っ子みたいな淋しい詩人」しかなく、「荒地の恋」にでてくる情熱的な人物像というのがどうしても腑におちなかった。どちらも同じくらいの時期の太郎さんを切り取っているし、同調するところもいっぱいある。それでもなにか悶々としていたのだけれど、詩集を何冊か買って読んでみたら「なるほど!」とおもえた。なにがなるほどなのかということも含めて、この小説を読むときには「珈琲とエクレアと詩人」と、太郎さんの詩集を何冊か準備してからのほうがいいとおもう。ぜんぜん読後の感じが変わってくるから。
そんなふうにして読後を楽しみ、ぼくはそのまま続けて2回目を読んだ。なぜかといえば、2回目は田村隆一の目線で読んでみたかったから。といったところで、ここにあらすじのようなものを書いていないのでピンとこないかもしれないけれど、その意味はこの小説を読めばすぐにわかる。太郎さんだけの物語として終えてしまうには、もったいなさすぎる。


「すてきな人生」と題された最後の章の太郎さんは、なにか生々しい。病に冒され、医師から余命宣告を受けたことと関係しているとおもう。後半、太郎さんが印税の計算をする場面がある。ただカネの計算をするという、この取るに足らないリアルな行動にグッとくる。涙がでる。乱暴ないい方をすれば、カネとメシというのは、生そのものであるとおもう。あとどれだけのカネが残っているか、いつになったらカネが入ってくるか、今日はメシが食えるか、明日はなにを食おうか、そういう計算をするということこそがリアルに生きている、ということなのだとおもう。生身の太郎さんが、たしかに此処にいる。


詩人も凡人も男女のそれにおいては、やっていることにそう大差はない。しかし、詩人の意識の中から一筋ずつ紡ぎだされ縒られた言葉のチカラというのは、ぼくらの想像を超えた圧倒的な破壊力をもっている。言葉の動物は、言葉に弱い。こんなに容易く追い込まれたり救われたりしてしまうくらいに軽い(脆弱な)生きものなのだ。詩人が恋をするとき、男のチカラはより圧倒的なものとなる。しかし、その恋が完全なる日常へと変わるとき、詩人は、男は…

珈琲とエクレアと詩人 スケッチ・北村太郎

珈琲とエクレアと詩人 スケッチ・北村太郎