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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

井伏鱒二の鯉。

なんだかしらないけれど、ちょくちょく微熱がでてしんどい。
むりをしているわけでもないし、睡眠時間もたっぷりとっている。それなのに、やっとよくなったかとおもうとまた微熱がでる。こういう季節の変わり目というのは、なかなかキモチとカラダが伴ってこないものなのかもしれない。それでも週末は草野球でリフレッシュするようこころがけ、週の中休みはゴロゴロしながら本を読むようにしている。長女が小学校から帰ってくる午後三時くらいまでのこの一人ぽっちの時間は、ぼくにとってちょっとした至福の時なのである。微熱のだるさに身をまかせつつ、好きな本を好きな姿勢で読みたいだけ読む。そんな時間が?そう、そんな時間が。


何冊か選んで枕元に積んでおいてから、ごろりと横になって本を読みはじめる。大好きな出久根達郎さんの古本エッセイ。とっかえひっかえ好きなところばかりをつまみ読みしていたら、ひさしぶりに井伏鱒二が読みたくなった。出久根さんは井伏さんが好きなのだ。好きな書き手の好きなものは、読み手ももちろん好きなのだ。好きでありたいというキモチにも後押ししてもらいながら読み進め、やがては好きを自分のものにしていくという作業もけっこう楽しい。


井伏さんの小説は、年に数回まとめて読むことが多い。古書価もわりと安いので(もちろんモノにもよるけれど)、うちの書棚には函入りの単行本がきれいに並んでいる。小説も随筆もどれを特別よく読むということもなく、まんべんなく手に取っているのだけれど、あえてお気に入りはどれかというならば、『夜ふけと梅の花/1930年 新潮社』という単行本に収められた「鯉」という作品が好き。もともとは随筆として随筆雑誌「桂月」に掲載されていたのだけれど、他の文学雑誌「三田文学」に転載したり、単行本に収録したりという際に小説の形態へと改められ、合計三回も加筆・字句訂正されている。それくらいに思い入れのある作品なのかなあと勝手に想像して、そういう意味でもなんとなく特別に感じている。

この「鯉」という作品は、最初の理解者であり無二の親友だった青木南八から鯉をもらい、その鯉を大切に想う、ただそれだけの話なのだけれど、読むと鮮明なイメージが生まれいつまでも頭から離れなくなる。随筆から改められたということで私小説のような味わいがあり、著者の屈託と孤独が読後にじわじわと胸に迫る。


鯉なんてそうそう飼えるものじゃない。学生という身分で下宿している井伏さんは、貰った鯉を下宿先の中庭にある瓢箪池に放つ。その後、池のある下宿から素人下宿へと移るのだけれど、そこには池がないため鯉を連れてはいかれない。そのときはいったん断念し、しばらくしてから釣り出し、青木の愛人宅にある泉水へと放つ。それから六年後に親友は夭折。愛人に手紙を送って許可を得てから鯉を釣り出し、こんどは早稲田大学のプールへ放つ。まいにち午後になるとこのプールへ足を運び、水泳を愉しむ学生たちを眺めては深い嘆息をもらす。

《或る夜、あまりむし暑いので私は夜明けまで眠れなかつた。それ故、朝のすがすがしい空気を吸はうと思つて、プールのあたりをあるきまはつた。こんな場合には誰しも、自分は孤独であると考えたり働かなければいけないと思つたり、或はふところ手をして永いあひだ立ち止まつたするものである。》

この淋しさはなんだろう。
親友の追懐を一匹の白い鯉に託したこの小説を読んでいると、途方に暮れた青春の孤独と哀感が、あの頃のなにとはない淋しさが、呼び起こされる。
そこには希望があった。美しさもあった。健康で朗らかなときがたしかにあった。
まだ微熱は、つづいている。