ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

物語のこと。

友人が最愛の奥さんを失くした。亡くなった奥さんは、ぼくの友人でもあった。子どももまだ小さく、これからというときなのに、彼女は憎き病魔に冒されこの世を去った。なんでわたしが、といって泣き崩れる彼女を支える友人もまた、よりによってなんでうちが、という思いで一杯だったはずだ。今もまだやりきれない思いが心の片隅で燻っているのだろうけれど、弱音も吐かずに子どもたちのため、そして自分自身のために、友人は彼女の遺志と共に新たなる一歩を踏み出している。ひとつの物語が終わり、また新たな物語がはじまった。取るに足らない脇役だけれど、友人の支えの一助になれたら、と切に願う。


人には物語が必要だ、と常々おもっている。そんなの要らないよ、という人であっても実はすでに物語の中に生きていて、やりきれないほどの悲しみや、抱えきれないほどの苦しみに遭ったとき、神頼みにも似た感覚で新たな物語を必要とする。ぼくらはそうやって、物語を辿ったり、書いたり、消したりしながら、その時々の感情をなんとかコントロールしながら生きているのではないだろうか。

《物語は人の行くべき道を示したり、逆に苦しみや悲しみももたらします。家族を失くした悲しみ、それも物語だし、その悲しみを救うのもたぶん物語でしょう。そしてほとんどの物語はまず本に書かれてあるのです。まったく本とは年寄りのようなもの。》(「本へ」いがらしみきお 著/『ものみな過去にありて』2012年 仙台文庫)

本を読むことで人は変われる、なんておもったことはない。でも読書によって他人や他国の考え方を知り視野を拡げていくことが、人を成長させるための最も優れた方法の一つであるとは信じている。この世に星の数ほど在る本のなかには、遠い過去から現在に至るまでの物語が、これまた星の数ほどぎっしり詰まっている。この先どれだけの本に出合えるのかわからないけれど、お年寄りの話に耳を傾けるように物語を読み続けていくことができるのであれば、ぼくの物語も今より少しはマシになっていくのかもしれない。救われたいとおもって本を読むわけではないけれど、せめて近しいひとの支えの一助になれる自分ではありたいとおもっている。


人生を一つの物語として考えるとき、それが誕生から最期まですでに決められた物語をなぞるだけにすぎないとわかっていたら、たぶん生きる気力を失くしてしまうだろう。とはいえ、生れ落ちたときにはもう大体のあらすじが決まっており、物語を書きつづけたい、生きつづけたいと願っていても、抗うことのできない強引な力によって幕を閉じざるを得ないというのが人生である。物語とは、人生とは、一体なんなのだろう。もし神様みたいなひとが上のほうの何処かにいたとして、「人間の一生」という物語を毎日ものすごい速さで書き綴っているのだとしたら、理不尽で時々むかつくけど、大した想像力の持ち主だなあとおもうし、尊敬もする。でも、やっぱりむかつく。