ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

洲之内徹と救済。

 感冒のせいで、ひどく咳がでる。だいぶん落ちついてきたとおもったら、またひどくなった。咳はつかれる。頭にもひびくし、あちこちの筋肉にもひびく。まさに全力疾走といった感じで、くたくたになる。こういうときは、おとなしく家で本でも読んで、ごろごろしているのがいちばんだ。

 先日、木下晋画文集「祈りの心」(2012年3月 求龍堂)を知人から譲り受けたので、半日くらい横になってずっと眺めていた。ものすごくインパクトのある絵なので、どこかで目にしたことがあったはずだと思いだし、しばらく書棚をガサゴソしたあと洲之内徹の美術随想に行き着いた。

 殆どあっという間の短い時間の出来事ではあったが、それを私は、ベンチに腰を降ろしたまま、黙って見ていたのだ。というよりも、一瞬、私は目をそらしたような気さえする。その私を、私は赦すことができない。 

 しかし、あれが私のなのである。しかも、あのときだけでなく、いつも私はそうなのだ。昔からそうだったし、いまもきっとそうだ。咄嗟の間にはそうなるにきまっている。私はいつもあのときの私と変わらない。それが私にはよくわかっている。人間というものはなどと大きなことを言う気はないが、躰じゅうそういう記憶でいっぱい詰まっている私というこの人間は、もうどうしようもないのである。《「凝視と放心」/洲之内徹 著『帰りたい風景』1980年11月 新潮社》

 木下晋の絵のなかの顔は、なにかをじっと凝視している。みているこちらは、その顔が見詰める、その先がだんだん気になり、そら怖ろしくなってくる。上に引いたのは、そんな見るものが感じる怖ろしさから、著者が自らの来し方を振り返り、人間が自らの生存に対して抱かされる恐怖について考えを巡らせるところである。

 著者は四国の松山で古本屋をしていたころ、その商売がうまくいかず、ひどく貧乏をしていた。わけあって奥さんと気まずくなった空気のなか川縁を歩いていると、そこにまだ真新しい子どもの下駄が一足ぬいであった。それが捨ててあるのではないとわかってはいたが、しばらく躊躇ってから奥さんはその下駄を拾って歩きだす。駅へ行って汽車を待っていると、そこへ農家のかみさんらしい女が駆け込んできて、ひどい剣幕で奥さんを罵り、恥のために立ち竦んだ奥さんの手から下駄を奪い返して去っていく。そのときただ傍観していただけの自分を、著者はずっと赦せずにいる。

 人にじぶんを見透かされるのはいやだし、怖い。だから人は、あえていろいろなカタチで武装してみせるのだけれど、芸術というのもそのひとつのあらわれなのだろうとおもう。もっといえば、そういう脅えがあるからこそ、ある種の力とそこからの救いが得られるものなのかもしれない。著者もじぶんのなかに巣食う記憶に脅え、もうどうしようもない、というところから思考をはじめる。そこから捻りだされるものは、とても深く、鋭く、心におちる。

 生存に対する幻滅なしには、真の芸術への希求もない。恐怖が救済を約束する。美以外に人間をペシミズムの泥沼から救ってくれるものはない(「凝視と放心」/『帰りたい風景』)

 ぼくにも、ここに書くのも憚られるような、ぼくが、ぼくを赦すことのできない記憶が躰じゅうに詰まっている。これはもう、どうしようもない。そういうじぶんと向き合い、時に逃げたりしながら幻滅し、日常についての些末なことを考え、想像する。ぼくは芸術家ではないけれど、そうして考えることによって次のなにかを希求し、そこへ向かって突き進もうとすることでどこか救われているような気がする。真に生きようとすることも、真の芸術を希求しようとするそれも、つまるところは同じなのではないだろうか。

 すばらしい本に出合うことも、また救いである。

帰りたい風景―気まぐれ美術館

帰りたい風景―気まぐれ美術館