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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

忘れられた巨人。

 きょうは母の日。でかけている連れ合いが帰ってくる前に、子どもたちを中心とした定番のカレーづくりをした。おいしい、おいしい、と喜んで食べる母親の姿に、子どもたちは満足の笑みを浮かべながら、皮むきやアク取りなど調理の過程を声高々に説明する。どこにでもあるような家族の風景に、なんとなくの安心感をおぼえる。一ヶ月後にはもう忘れてしまうのかもしれないけれど、きっと記憶のどこかにそれは残るのだろうとおもう。

 十年ぶりに、カズオ・イシグロの長編小説「忘れられた巨人」(2015年4月 早川書房)が刊行された。カズオ・イシグロは、新作の出るのが待ち遠しい、大好きな現代作家の一人である。小説の形式をひとつの道具にして、その挑戦を愉しみながら書いている(かどうかは知らないけれど)著者の作品は、いつだって読むものを驚かせてくれる。今回は、いろんな読み方(記憶と忘却、戦争と平和、愛と死など)のできる冒険ファンタジー形式。最初は「なるほど、そうきましたか」と驚きばかりが強かったのだけれど、すぐに愛と絆を本質としたこの物語に引き込まれてしまい、最後はいつものように深く考えさせられた。

 夫婦ってなんだろう。そんなことを、ぼんやりと考えることがよくある。価値観も違う、考え方も違う、生まれたところも、生きてきた過程(家庭)も、好きな食べ物も違っている。ぼくの連れ合いに関していえば、大して本が好きでもないという決定的な違いさえある。まったくの赤の他人に過ぎない。仮にそれらがおおよそすべて一致していたとしても、それが夫婦であるということの意味においては、いったいどれほどの意味をもつことになるのだろうか。まったくわからないのに望んで多くの時間を共に過ごす理由があるのだとすれば、愛とか絆という記憶の連続帯によるところが大きいのかもしれない。どんな時間をどう一緒に過ごしてきたか、そういった多くの思い出の積み重ねが、夫婦というものをつくっていくのだろうか。

「わたしはな、お姫様、こんなふうに思う。霧にいろいろと奪われなかったら、わたしたちの愛はこの年月をかけてこれほど強くなれていただろうか。霧のおかげで傷が癒えたのかもしれない」

「いまはもうどうでもよくなくって、アクセル?(後略)」

 ぼくにとって身近なところに注目して読むとき、アクセルとベアトリスという老夫婦を中心としたこの物語のキーワードは、時間と記憶(思い出)にある。ひとの心に作用する奇妙な霧に覆われた世界にあって、失くしてしまった何かを取り戻そうと旅に出るのだけれど、その道程で様々な記憶の断片と向き合うことになる。それは恨みであり、怒りであり、憎しみであり、孤独になることへの恐怖であり、不毛であり、欺きであり、愛である。老夫婦をはじめ、この物語の登場人物たちは、これらの断片と向き合うとき、それまでに過ごしてきた時間と記憶と忘却の間で揺れる。これまで生きてきた過程を呼び起こすべきなのか、それとも、そのままそっとしておくべきなのかと。失ってしまうものへの恐怖、取り戻すことで生じる問題、それは私たちの歴史そのものでもある。

 上に引いた老夫婦の会話で、妻のベアトリスの言葉がとても印象に残った。多くの時間を共にしてきた連れ合いとの別れの際で、夫婦であることの確かさについて問いかけたとき、「いまはもうどうでもよくなくって?」といってもらえたら、もうそれで十分なのではないかとおもう。それ以上の言葉はいらないだろうなと。

 とはいえ、ぼくらは夫婦になってまだ十年。なにもわからないまま、行き先の見えない旅をつづけている。

忘れられた巨人

忘れられた巨人