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ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

日常と不在を見つめて。

 どうも体調がわるい。ことしは厄年(本厄)で、しらべてみると体力低下やホルモンバランスの変化で体調を崩しやすくなるらしい。信じるとか信じないとかいうよりも、ちょうど人生も折り返し地点に入ったことを考えると、たしかにそういうこともあるのかもしれないなとおもう。

 体調はイマイチなのだけれど、あいかわらず縁のチカラに救われて元気はある。古い友人や恩師との再会、本や仕事をとおしての出会い、そこからつながった新たな可能性に胸も躍っている。たのしく躍っていると、たいていのことはなんとかなる。いつだってそうやって、不思議となんとかなっている。

 このあいだの土曜日に、アテネ・フランセ文化センターで映画を観てきた。里山社の単行本刊行記念『特集上映 佐藤真の不在を見つめて』で、二十年ぶりくらいに『阿賀に生きる』を観たのだけれど、空っぽの缶詰みたいな二十代と現在とでは感じ方もぜんぜん違っていて、たぶん今いちばん観たかった映画だったんだなということに映画が終わってから気づいた。

 佐藤真監督とは、二十代の頃に仕事を通じてお会いしたことがあって、しばらくそこで寝泊まりしながら撮影をしていた監督の姿をおもいだした。あれから二十年近く経って、里山社の清田さんを通じてまた佐藤真という人につながったことを感慨深くおもう。

 いまだったら聞きたいこともたくさんあるのだけれど、その頃のぼくは遠巻きに観察することくらいがせいぜいだったので、お酒の席や車中で一緒になる機会もあったのにおもいだせることはあまりない。それでも、ドキュメンタリー映画という仕方で市井のひとの日常性を切り裂いて、その奥にあるものを見てしまおうとする無気味さみたいなものを当時から感じていて、そういう人がじぶんの日常にちかいところで生きているということをはじめて経験し、とても困惑したことは憶えている。

 生きるとはなんだろう。生きるということは日常のくり返しなのだけれど、その日常性をうまく切り裂くことができれば生きることの本質も見えてくるものなのかもしれない。ただ、日常性を切り裂くというのはそんなに簡単なことではないし、日常性から外れてしまえばそれは非日常である。ぼくは映画について語るほど映画を知らないのだけれど、みせるために必要な非日常と、日常性のなかに潜むものを抽出していく作業で「生きる」を伝えようとするのだとしたら、映画を撮るということも日常であり生きる手段である以上、これは苛酷な戦いだなとおもう。

 映画を見終えてから、ぼくはそこにある苦悩や区切りのようなものをつけるまでの過程を知りたくなった。いまのじぶんにとって必要な何かのようにおもえて。まだ読んでいないのだけれど、『日常と不在を見つめて』(2016年3月 里山社)をまず読んでみてから、佐藤監督の書いたものを少しずつ読んでみようとおもっている。映画も観よう。いまとなっては、それ以外に耳を傾けるための方法は永遠に失われてしまったから。

 これから少しずつあたたかくなってくるし、体調もまたよくなってくるに違いない。そうしたら、撮影した場所を歩いてみるのもいいだろう。ロケ地でもあった思い出の場所にもまた足を運びたい。

 また何かの縁によって、よりいっそう胸が躍っている。

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