ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

本当の自分。

 夜中からずっと激しい雨が降りつづいている。
 明け方、地響きがするような雷鳴と共に子どもたちが泣きだし、目が覚めた。カーテンを少しだけあけて見る窓の向こうは、ふしぎなくらいに黄色な世界。なんとなくこの世の終わりのような、そんな雰囲気の朝から今日がはじまった。


 みんな出かけて空っぽになった家で、ひとり本を読む。そのなかに「本当の自分」という言葉を見つけ、そういえばついこのあいだ、そんな話をしたばかりだったと思い出す。気が置けない友人と酒を酌み交わしながら話すことといえば、そんな青臭い話ばかりだ。


 「ブログに書いている自分って、本当の自分なの?」と、いつもこのブログを読んでくれている友人に訊かれた。答えはYesであり、Noでもある。
 これを書いているのは間違いなく自分だし、自分なりに考えたことや起こったことを事実に基づいて書いているというのも間違いない。嘘偽りなく、ぜんぶ本当のことだ。ただ、書くために整理していく過程で、「不必要(不都合)なこと」は削ぎ落としている。つまり、ここに書いているような側面が自分にあることは本当なのだけれど、それだけが自分という人間をカタチづくっているのかと問われれば、それは違う。ややこしい話だけれど、その状況や環境に合わせて小出しに表現できる分だけの自分、それは紛れもない本当の自分の姿なのだけれど、100%な自分ではない。


 そもそも、本当の自分という言葉そのものがおかしい。本当もなにも、自分はじぶんじゃないか、とおもう。仕事しているときの自分、夫としての自分、父としての自分、友人としての自分、みんなみんな自分だ。嘘でも偽りでもない。そういう小出しに表現できる自分のことを、うまく使い分けられる裁量というのも自分ならではなのだ。それは決して裏表ということではない。たまに全く使い分けることをせず、どんな場面だっていつも自分はありのまま、という人もいるけれど…


 「自分らしさ」とか「自分探し」というのも、少しおかしい気がする。自分はいつだってここにいるのだ。らしいもらしくないも、探すも探さないも、いつだってここにいる。そんなこと、他の誰でもない自分自身が一番よくわかっているのだ。だからこうおもう。欲しているのは本当の自分なんかじゃなくて、よくよく知っている本当の自分を一旦リセットすることのできる時間や場所なのではないか、と。
 

 ぼくには実際にそうやって転々としていた時期がある。旅もそうだし、引っ越しもたくさんした。ファミコンのリセットボタンを押すみたいに、ポチッとやればいつだってタイトル画面に戻れるような気がしていた。さすがに「なかったこと」にはできないけれど、気持ちを切り替えて自分を見つめ直し、新たな自分をつくることはできるとおもう。できるだけ今の自分から遠いところで、どこにもいない自分を探すのではなく、新たな自分をつくるためにリセットするのだ。反省と成長を続けたいという気持ちさえあれば、いつだって新しい自分をつくるチャンスはあるものと信じている。


 話が逸れた。逸れたついでに、「らしさ」について思うことも書き留めておこう。でも、長くなってしまったので、それはまた次の機会に。

出会いのこと。

 2011年3月という、忘れたくても忘れられない年月からスタートした「あいおい古本まつり」は、今年で5回目を数えた。いつもと変わらないように見えるこのイベントも、 運営する側からしてみれば実にいろいろなことがあって、試行錯誤の末の特別な5回目ということになる。それだけに、とても感慨深いものがある。


 実はこの5回目というのは、このイベントにとっての大きな節目でもあった。なぜに節目なのか、その辺のことを少し書いておこうとおもったのだけれど、やめた。おもわせぶりなことを云うつもりもないのだけれど、とりあえず今はまだうまく整理がついていないので、これについては近いうちにまた。


 さて、感慨深いといえば、こういうイベントを企画したりしてじぶんの夢に向かって歩いていると、必ずといっていいほど最高の出会いに巡り合う。そのとき出会っておかなくてはならないひとに(それに気づくのは出会ってからずっと後になってからの場合もあるけれど)、びっくりするくらい最高のタイミングで出会うのだ。つい先日まで、それは単に運がいいだけなのだとおもっていたのだけれど、このことばかりをじっと考えていたら、ただ運がいいだけではないようにおもえてきた。きっと、じぶんがそれを求めていたからこそ、その出会いに気づくことができたのではないだろうか、と。


 ぼんやりとただ毎日を送っているときは、まったくといっていいほど出会いがない。というよりも、せっかく出会ったとしてもその幸運に気づくことができない。そんなふうに考えていたら、出会いというのは偶然に向こうからやってくるだけのものではなく、じぶんの中から生まれてくるものでもあるのかもしれないとおもえてきた。しっかりと夢をもって、実現するためにきちんと計画して、最後までやり通そうという強い気持ちを捨てないことが、人との出会いにもつながっているのだろうか。


 出会いというのは、出会ったことだけでじぶんの中に大きな変化をもたらす場合もあれば、その後の付き合いによってジワジワとゆっくり存在感を増す場合もある。それは一冊の本との出会いにもよく似ている。それもこれもみんな縁だとおもうのだけれど、あんまりぼんやりしていれば指のあいだから零れ落ちる砂のように、静かに消えてなくなってしまう。はじめましての出会い、出会いからの出会い、今回も本当にたくさんの出会いがあったのだけれど、その出会いに意味をもたすことができるかどうか、そのためにじぶんがどう行動するのか、それが出会えたことに対する一番の感謝になるのだろうとおもっている。


 始動、すべての出会いに多謝。

読書という糧。

 少し前にも書いたのだけれど、ここ三ヶ月くらい仕事に関する本ばかりを中心に読み漁っている。そういった、目的をもって得るためにする読書というのは、それはそれで楽しく、何らかの糧になっていることをおもって嬉しくもなる。
 だけど、そんなとき、一方で何の糧にもならないような小説の世界に、ふとひたりたくなる。普段なら滅多に読まないようなSF小説推理小説でうっぷんを晴らしたくもなるし、心がふるえるような純文学に没頭して、豊かな時間を過ごしたいともおもう。小説を読む悦びを知ってしまうということは、たぶんそういうことなのだろう。
 

 そんなふうにしばらく小説の世界にひたっていると、そのうちだんだん私小説が恋しくなってくる。てらいのない率直な文体で書かれた、技巧に走らない静かな小説が読みたくなる。上林暁の小説が、たまらなく読みたくなる。


《校門際のたった一株の痩せた薔薇——然もたった一輪咲いた紅い薔薇の花が、一夜のうちに盗まれてしまった。鋭利な刃物で剪ったのではなく、延びた爪で摘みきってあった。朝になってみると、柔らかい切り口はもう黒く萎びていた。花のなくなった枝や葉のうえを、蟻だけが所在なさそうに、でも忙しそうに這い廻っていた。》( 上林暁 著 『薔薇盗人』1933年 金星堂)


 惚れ惚れするような名文に、心がほどける。たった数行の中に、いのちの美しさや儚さ、人生のかなしみみたいなものが、ギュッと凝縮されて描かれている。実生活に基づいた私小説や随筆もいいけれど、こういう創作にも同じような空気感が漂っていて、著者の書いたものは、たいていどれもいい。
 

 人の「いのち」の部分をジッと見つめた、そのやわらかな鋭さが大好きで、もう何度も読み返している。いろんな本を読んで、いろんな話を聞いて、いろんなことを考えて、実際の生活を送りながら現実を前へと進めていても、帰ってきたいところはこんな安住の場所、名文のあるところなのだ。上林暁の小説には、もうずいぶんと救われている。
 多くの人にとっては何の糧にもならないようなことが、ぼくにとっては大きな糧となっている。経済と哲学の間で、どこにも辿り着けないまま青臭いことを考えている今の自分を支えているのは、そんな糧なのだ。ともかく糧さえあれば、今は見えていなくても、いつかどこかには辿り着くことができるだろう。楽観的すぎるだろうか。


 暑さのせいもあるけれど、あれこれ考えることが多すぎて、気忙しい。そんな中で、少しの疲れを感じるのと同時に、まったく新しい心地よさも感じている。悪くない感覚だ。
 さて、もう少しだけ名文のなかをゆっくりしてから、もとの場所へと戻ろうか。惚れ惚れするような名文を、もうひとつ引いて。


《由美江は五つになる女の子である。(中略)その垢染んだ着物の胸に、まっ紅な薔薇の花を徽章のようにくっつけて、仰向けに寝転がっているのである。夜になっても電気燈は勿論、洋燈も蠟燭もつけず真っ暗なまま、昼でも薄暗いこのあばら家のなかで、薔薇の花だけが、派手な、それだけ不気味な強い色彩で耀いている。だが花が萎びるにつれ、その耀きもだんだん衰えて行くのであった。》( 上林暁 著 『薔薇盗人』)

聖ヨハネ病院にて・大懺悔 (講談社文芸文庫)

聖ヨハネ病院にて・大懺悔 (講談社文芸文庫)

あいおい納涼祭2013。

イベントの告知ばかりがつづきますが…
あいおい文庫の夏といえば、「あいおい古本まつり」と「あいおい納涼祭」のイベント2本立てがすっかり定番となりました。この定番というのはうれしいもので、久しぶりに会った人から「そろそろですね」なんて云われたりすると、どうにかこうにか続けられていることの楽しさや大切さをおもい、じーんときてしまいます。


さて、今年のあいおい納涼祭は「生ビールとライブとプロレス」を合言葉に、関東学生プロレスのタイトルマッチや、激安模擬店(やきそば、焼き鳥、フランクフルト、じゃがバター、かき氷、スイーツ、ビールなど100円〜)、東北地方復興支援プロジェクト「ちくちく羊毛フェルトアクセサリーづくり」などの一般参加型ブース、そして昨年に引き続き『NUU(ぬぅ)』のライブと『オグラ(インチキ手廻しオルガン)&ジュンマキ堂』ライブの2本立てで組み立てました。お昼前からはじまって夕方まで一日ずっと楽しめるプログラムとなっていますので、どなたさまもお気軽にお越しください。


■日 時
 2013年9月8日(日)11:00〜17:00


■イベントあれこれ
13:00−14:00
インチキ手廻しオルガンと魅惑のチンドン
オグラ&ジュンマキ堂 ライブ
  詳細⇒http://d.hatena.ne.jp/aioi_bunko/20120728/p4


14:00−15:00
UWF関東学生プロレス《タイトルマッチ》
  詳細⇒http://d.hatena.ne.jp/aioi_bunko/20120728/p3


15:30−17:00
NUU ライブ2013
  詳細⇒http://d.hatena.ne.jp/aioi_bunko/20120728/p2


■一般参加型ブース

東北ちくちくプロジェクト
羊毛フェルトアクセサリーづくり


  詳細⇒http://chikuchiku.soyokazeya.com/


復興マルシェ! 被災地作家による手作り小物やニットの出店


招き猫か?化け猫か?それはあなたの行い次第…
小沢竜也 写真展「おつかい」   
  詳細⇒http://d.hatena.ne.jp/aioi_bunko/20120813/p1


■会 場
 相生の里「OPEN SPACE あいおい文庫」(東京都中央区佃3−1−15)
 地下鉄有楽町線・大江戸線「月島駅」2番出口からまっすぐ相生橋に向かって徒歩3分です。グレーとブラウンの建物に赤いのぼりが目印です。


■お問合せ
ライブのご予約は、名前、電話番号、参加人数、参加されるイベント名をご記入のうえ、メールかファックスでお申し込み下さい。お電話での受付も可能です。

 Mail: sw@aioinosato.jp

 FAX:03-6220-1502/TEL:03-5548-2490(砂金まで)

聞くための態度。

話せる人というのは多いけれど、聞ける人というのはそう多くないようにおもう。


哲学者であるモーティマー・アドラーという人の言葉に、『聞くことは主に頭脳の仕事だ。耳ではない。もし、頭脳が聞くという活動に積極的に参加していなかったら、それは「聞く」ではなく「聞こえる」と表現すべきだ』というのがあるのだけれど、そこにぼくなりの考えを勝手に付け加えさせてもらうと、『心を開いて話を受け止めていなければ、それは真に聞いたということにはならない』となる。


たとえば悩んでいる人の話を聞くときの「聞く」とは、しっかりと時間を取って相手の言葉に耳を傾け、その人がどんな経験をし、何を感じ、何をおもったのか全身で受け止めることをいうのだとおもう。そのためには話の途中で言葉を差し挟んだりせず(よかれとおもってのアドバイスなどを語りはじめたりせず)、最後までじっと黙って聞く姿勢が必要だ。これは自分自身も大いに反省するところではあるのだけれど、相手の話を聞くつもりが、なんとか助けになりたいとおもって、または結論を勝手に先取りして、あいづち以上の言葉を差し挟んで相手を黙らせてしまうことがある。それが如何に的を得た最高の言葉であったとしても、はたしてそれが相手の望んでいたことだったのかどうかと、あとになって考えてみて疑問が残る。


多くの場合、人はただ聞いてほしいだけなのではないだろうか。聞いてもらい、受け止めてもらえたからこそ、相手の言葉に耳を貸す余裕も生まれるのだろう。だから聞くためには、まず「聞くための態度」というものが重要になってくる。悩んでいる人の話を聞く、仕事関係の人の話を聞く、家族の話を聞く、その相手や場面によって聞き方は変わってくるのだけれど、まず聞くという態度が身についているかどうか、心と頭で聞けているかどうか、そこだけはどんなときも変わらないだろう。


ここで「聞く」に関する目の覚めるような言葉をもう一つ。『三流は人の話を聞かない。二流は人の話を聞く。一流は人の話を聞いて実行する。超一流は人の話を聞いて工夫する』 これは将棋棋士である羽生善治さんの言葉なのだけれど、一読してガッツーンとくる。羽生さんのいう「超一流の人」と、先に引いたモーティマー・アドラーの「聞くということは主に頭脳の仕事だ」というのには共通したところがある。ただ聞こえている人、聞ける人、聞いたまま動く人、聞いて考えて動ける人、同じ「聞く」でも、それはまったくのベツモノだということが、どちらの言葉からも伝わってくる。聞くための態度を養うということは、大切な相手のためでもあり、なにより自分のためでもあるのだ。いい人生を過ごすために、もっといい聞き方をしていこう。


ここでちょっと、「聞く」に関するイベントの宣伝を…
このブログでも何度か取り上げたことがあるのだけれど、星野博美さんと上原隆さんという、ぼくの大好きな作家さんお二方をお招きしてのトークイベントを「あいおい文庫」でやります。はっきりいって、ひっくり返りそうになるくらい興奮しています。このトーク、ぜったいにおすすめです。少なくとも、このブログを時折のぞいてくれているような方であれば、ぜったいに喜んでいただけるとおもいます。だって、ぼく自身が一番聞きたくて実現させたイベントなのですから。トーク終了後には、ちょこっとだけの懇親会もあります。お時間のある方は(お時間のない方も無理矢理なんとかして)聞きに来てください。話を聞くということ、聞いて考えるということ、超一流の言葉に一緒に耳を傾けてみませんか?


■普通の人に話を聞くとき

直視の人である上原隆さんと、視角の人である星野博美さん。お二人の文章からは、人生をジッと見つめる「やわらかな鋭さ」を感じます。それは「目」のよさだけでなく、他人と自分に寄り添って聞く「耳」をもった人だからこそ書くことのできる、特別な言葉の感覚です。
なぜ普通の人に話を聞きたいか、どんな話が聞けた時に思わずガッツポーズが出てしまうか、「耳を傾ける達人」たちが「普通の人」たちに話を聞くとき心がけていることを語りあいます。やわらかな鋭さを、ぜひ体験してみてください。


※このイベントの見所・聞き所を、公式ブログにまとめました!
星野博美×上原隆『普通の人に話を聞くとき』の見所・聞き所 : 第5回 あいおい古本まつり 2013


星野博美(作家・写真家)×上原隆(コラムニスト)


日 時:8月24日(土)16:30~18:00
会 場:相生の里「OPEN SPACE あいおい文庫」(東京都中央区佃3−1−15)
参加費:1,000円
参加申し込みは、件名「普通の人トーク」で abooklabo@gmail.com まで。
終了後に1時間程度の懇親会を予定しています。
「あいおい古本まつり」の詳細はコチラ▷http://aioibook.exblog.jp


星野博美(ほしの・ひろみ)
作家・写真家。大学卒業後、会社勤務を経て写真家・橋口譲二のアシスタントとなる。
1994年、フリーの写真家・作家としての活動を開始。1996年8月より1998年10月まで返還を挟んで香港に滞在し、その時の体験を記し た『転がる香港に苔は生えない』で第32回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。2012年『コンニャク屋漂流記』で、第2回いける本大賞、第63回読売文学賞随筆・紀行賞受賞。『戸越銀座でつかまえて』(朝日新聞出版)が9月に刊行予定。


■上原隆(うえはら・たかし)
コラムニスト。大学卒業後、映像制作会社に勤務。会社勤務と同時に、同人誌「揺」や、雑誌「思想の科学」において編集・執筆を行う。その後は作家活動に専念し、市井の人々の生き方に目を向けたルポルタージュや身の回りの何気ないことに温かな目を向けるエッセイを執筆。近著に『こころが折れそうになったとき』(2012年 NHK出版)や、『こんな日もあるさ 23のコラム・ノンフィクション』(2012年 文藝春秋)などがある。

第5回あいおい古本まつり。


夏といえば、あいおい古本まつり。5回目となる今回も、トークショーが4本に、フリーペーパーづくりのワークショップ、あいおい句会など、本好き以外の方にもお楽しみいただけるような内容の2日間となっております。どなたさまもお気軽にお越しください。


2013年8月24・25日(土・日)11:00〜18:00


■古本まつり(古本市)参加店
古書現世 三楽書房 青聲社 立石書店
西秋書店 にわとり文庫 やすだ書店 藤井書店
丸三文庫 リズム&ブックス


■イベントあれこれ(要予約)
★8月24日(土)開催のイベント


はだか☆のむみちPRESENTS
■脇目もふらズ、脇役一直線!
寒空はだか(歌うスタンダップコミック)×のむみち(「名画座かんぺ」発行人・「古書往来座」店員)
11:00~12:30 1階 あいおい文庫 参加費1,000円


■あいおい句会 
日下野由季(俳人)
13:00~15:00 1階 あいおい文庫 参加費1,000円


■普通の人に話を聞くとき
星野博美(作家・写真家)×上原隆(コラムニスト)
16:30~18:00 1階 あいおい文庫 参加費1,000円
※このイベントの見所・聞き所を、公式ブログにまとめました!
星野博美×上原隆『普通の人に話を聞くとき』の見所・聞き所 : 第5回 あいおい古本まつり 2013


★8月25日(日)開催のイベント


■パンのフリーペーパーをつくろう!
講師:林舞(デザイナー)
12:00~13:30 1階 あいおい文庫 参加費1,500円(材料費等込)※15名限定


■「粋人粋筆」の世界へようこそ
坂崎重盛(随文家)×小沢信男(作家)×大村彦次郎(編集者)
13:00~14:30 8階 デイルーム 参加費1,000円


■芸能界の裏ルポライターとして
水道橋博士(浅草キッド)×木村俊介(インタビュアー)
15:30~17:00 8階 デイルーム 参加費1,000円


★イベントの詳細はコチラ▷ http://aioibook.exblog.jp/


会 場
相生の里「OPEN SPACE あいおい文庫」(東京都中央区佃3−1−15)
地下鉄有楽町線・大江戸線「月島駅」2番出口からまっすぐ相生橋に向かって徒歩3分です。グレーとブラウンの建物に水色のノボリ「あいおい古本まつり」が目印です。


イベントの予約・問合せ(予約受付中!)
名前、電話番号、参加人数、参加されるイベント名をご記入のうえ、メールかファックスでお申し込み下さい。

 Mail: abooklabo@gmail.com

 FAX:03-6220-1502/TEL:03-5548-2490(砂金まで)

上善は水の如し。

友人たちと呑んでいたら、座右の銘の話になった。思いのほか座右の銘をもっている人というのは多いようで、有名な格言から初めて耳にするような言葉まで、次々とでてくる。普段は本なんて読まないという友人も、けっこう言葉を大切にしながら生きているんじゃないか、とうれしくなった。かくいうぼくも、座右の銘というような言葉をいくつか大事にもっているのだけれど、その一つに、古代中国の哲学者である老子の「上善は水の如し」というのがある。かれこれもう10年以上、ぼくの心の真ん中に、どっかと座って居ついている。

《上善は水の若し。水は善く万物を利して而も争わず、衆人の悪む所に処る。故に道に幾し。居には地が善く、心には淵が善く、与には仁が善く、言には信が善く、正には治が善く、事には能が善く、動には時が善し。それ唯だ争わず、故に尤め無し。(老子 第八章)》

ぼくなりに老子のこの言葉を解釈してみると、『もっともよい善というのは、水のようなものである。水は万物の成長を助け、他と争うということがない。そして、みんなの嫌がるような所にも流れていってそこに留まる。だから、道(真理)に近いのだ。高いところ(地位や名誉)を望まず、深く静かな心を保ち、思いやりを大切にし、嘘偽りのない言葉で話し、一方的な価値観にとらわれないよう治め、事に当たるとき能力を発揮できるよう努め、動きだす時のタイミングを大切にする。それは少しも争わないということであり、つまり過ちもない。』と、だいたいこんな感じになる。


まだ学生のころ、社会福祉の勉強をしていたときに「人というのは水のような存在である。だから、私たちの仕事の有り様が問われる」というような言葉をどこかで聞いた。といっても、だいぶん昔のことなので、今ではすっかりうろ覚え。なんの話をしているときに出てきた言葉なのか、その意味さえもはっきりしない。けれども、水のような存在、という言葉だけはよっぽど心に響いたようで、忘れられない一つの記号となって、その後もずっと心に残りつづけた。残りつづけたその言葉は、それから数年の時を経て「上善は水の如し」へとつながる。言葉を追っているうちに偶然行き当たる、いつものパターンでつながったのだ。あのころに聞いた、ぼくなりの解釈でしか記憶にない「水のような存在」と、老子のいう「水の如し」というのは、言葉の意味そのものは違っている。違っているのだけれど、どこかでちゃんとつながっているとおもう。川が海へとつながっているように。


ぼくの考える「水のような存在」というのは、容れ物としての自分をイメージするということ。つまり、水のような存在というのは、相手のことを水にたとえて自分を見つめるということになる。たとえば福祉従事者(ソフトとハードの両方を含めたトータル)として、自分たちはどのような容れ物となって相手を迎え入れるべきなのか、ぼくらの仕事は容れ物としての有り様をイメージしていくところからはじまる。いや、はじまるべきなのだとおもっている。あたたかみのあるカタチで受け入れれば、水はあたたかみのあるカタチへと姿を変える。逆にぎすぎすしたカタチで受け入れれば、水は抗うこともできずにぎすぎすしたカタチへと姿を変えていく。低いほうへ低いほうへと逆らわず自然に流れていく水というのは、老子がいうところの道(真理)に近いぶんだけ、ある意味に於いての「弱さ」を孕んでいる。それがより純度の高い水であれば尚更だろう。だから、「私たちの仕事の有り様が問われること」になるのだ。もっといえば、この社会全体の有り様が問われているのだともおもう。


もっともよい容れ物であるためには、それ自体が水のようなものでなければならない。ぼく自身はどうだろうか。老子の言葉を時どき思い出しては、そんなふうにおもう。