読書という糧。
少し前にも書いたのだけれど、ここ三ヶ月くらい仕事に関する本ばかりを中心に読み漁っている。そういった、目的をもって得るためにする読書というのは、それはそれで楽しく、何らかの糧になっていることをおもって嬉しくもなる。
だけど、そんなとき、一方で何の糧にもならないような小説の世界に、ふとひたりたくなる。普段なら滅多に読まないようなSF小説や推理小説でうっぷんを晴らしたくもなるし、心がふるえるような純文学に没頭して、豊かな時間を過ごしたいともおもう。小説を読む悦びを知ってしまうということは、たぶんそういうことなのだろう。
そんなふうにしばらく小説の世界にひたっていると、そのうちだんだん私小説が恋しくなってくる。てらいのない率直な文体で書かれた、技巧に走らない静かな小説が読みたくなる。上林暁の小説が、たまらなく読みたくなる。
《校門際のたった一株の痩せた薔薇——然もたった一輪咲いた紅い薔薇の花が、一夜のうちに盗まれてしまった。鋭利な刃物で剪ったのではなく、延びた爪で摘みきってあった。朝になってみると、柔らかい切り口はもう黒く萎びていた。花のなくなった枝や葉のうえを、蟻だけが所在なさそうに、でも忙しそうに這い廻っていた。》( 上林暁 著 『薔薇盗人』1933年 金星堂)
惚れ惚れするような名文に、心がほどける。たった数行の中に、いのちの美しさや儚さ、人生のかなしみみたいなものが、ギュッと凝縮されて描かれている。実生活に基づいた私小説や随筆もいいけれど、こういう創作にも同じような空気感が漂っていて、著者の書いたものは、たいていどれもいい。
人の「いのち」の部分をジッと見つめた、そのやわらかな鋭さが大好きで、もう何度も読み返している。いろんな本を読んで、いろんな話を聞いて、いろんなことを考えて、実際の生活を送りながら現実を前へと進めていても、帰ってきたいところはこんな安住の場所、名文のあるところなのだ。上林暁の小説には、もうずいぶんと救われている。
多くの人にとっては何の糧にもならないようなことが、ぼくにとっては大きな糧となっている。経済と哲学の間で、どこにも辿り着けないまま青臭いことを考えている今の自分を支えているのは、そんな糧なのだ。ともかく糧さえあれば、今は見えていなくても、いつかどこかには辿り着くことができるだろう。楽観的すぎるだろうか。
暑さのせいもあるけれど、あれこれ考えることが多すぎて、気忙しい。そんな中で、少しの疲れを感じるのと同時に、まったく新しい心地よさも感じている。悪くない感覚だ。
さて、もう少しだけ名文のなかをゆっくりしてから、もとの場所へと戻ろうか。惚れ惚れするような名文を、もうひとつ引いて。
《由美江は五つになる女の子である。(中略)その垢染んだ着物の胸に、まっ紅な薔薇の花を徽章のようにくっつけて、仰向けに寝転がっているのである。夜になっても電気燈は勿論、洋燈も蠟燭もつけず真っ暗なまま、昼でも薄暗いこのあばら家のなかで、薔薇の花だけが、派手な、それだけ不気味な強い色彩で耀いている。だが花が萎びるにつれ、その耀きもだんだん衰えて行くのであった。》( 上林暁 著 『薔薇盗人』)
- 作者: 上林暁
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2010/11/11
- メディア: 文庫
- 購入: 1人 クリック: 21回
- この商品を含むブログ (6件) を見る