ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

ハチドリのひとしずく。

 人生というのは、なかなかスマートにはいかないものだなとつくづくおもう。

 やっとのことで手に入れたかのようにおもえたものも、掌で掬った砂のように、さらさらと指のあいだから零れおちていく。

 それでも、いくらかは残る。

 零れていく砂をあわてて掬おうとあがけば、こんどは残った砂まで零れてしまう。だから、掌に残った砂を大切にしながら、またちいさくカタチづくっていけばいいのだ。そうやってなんどもなんどもあきらめずくり返していくうちに、いつかは思い描いていたような何かに近づけるものなのかもしれない。

 そうおもってなんどもくり返してはみるのだけれど、どうしようもなく心が折れそうになることがある。どうすればいいのだろう。そもそもこのままつづけていくことに、なにか意味があるのだろうか。ずっとそんなことばかりを考えるようになる。

 このブログのタイトルにあるハチドリ(Hummingbird)というのは、ぼくの好きな歌うたい、斉藤和義さんの歌に影響されて付けられている。“ハミングバード”と名付けられたその歌は、いつもぼくに勇気をくれる。力づよく背中を押してくれる。ぼくにとってかけがえのない大切なその歌に出てくるハミングバードというのは、いったいどんな鳥なんだろう。そんなところからはじまって、ぼくは世界最小(全長6cmほど)の鳥、ハチドリに興味をもつようになった。ハチドリについて書かれた本は思いの外たくさんあって、そのうちの何冊かを買って読んだ。そして、この本と出合った。

ハチドリのひとしずく いま、私にできること

ハチドリのひとしずく いま、私にできること

 

  ぼくはぜんぜん知らなかったのだけれど、これはとても有名な本のようで、たくさんの著名人によって紹介されている。

 南米エクアドルの先住民の言い伝えであるこのお話は、とてもシンプルだ。森が火事になり、大きな動物たちも逃げていくなか、ちいさなハチドリは火事にむかって一滴ずつ水を運ぶ。「私は、私にできることをしているだけ」と。

 最初の数ページがこのお話で、あとは環境問題に(取り組むでもなく)取り組んでいる、ひとしずくのひとたちの言葉。みんなシンプルに生きていて、うらやましいくらいにいい顔をしている。よけいなことは考えない。だからよけいにグッとくる。

 ひさしぶりに、本を読んでいて泣いた。語られる言葉やメッセージにではなく、ひとしずくの水を運ぶハチドリの姿をおもったら泣けた。生きることは、本当はとてもシンプルなことなのだ。そして、このハチドリの姿に意味や教訓めいたものを見たり感じたりしようとするのが、人間なのだ。ただそれだけのことをおもい、涙がでた。

 このひとしずくに意味なんていらないのかもしれない、少しだけそうおもえるようになった。

ふつうの妥協点。

 ずっとやめていた煙草をまた吸うようになった。もったいない、とよく言われるけれど、ぼくにしてみれば休煙していたこの6年間のほうがもったいなかったとおもう。

 煙草そのものをガマンするのはなんでもないことなのだけれど、煙草を吸わないことでガマンせざる得なかった沈黙のことをおもうとぞっとする。それはふつうではないのかもしれないけれど、そういうふつうだってあるのだ。じぶんにとっての「ふつうであるためのルール」が崩れていると、どこかに歪みが生じることで見落としてしまう何かがあるような気がする。いつだってふつうに暮らすことだけを望んでいるのだけれど、ときどきふつうということがよくわからなくなる。

 ふつうじゃないかもしれないふつうのことを意識してみるとき、ぼくはふつうの人々のささやかな日常に光を当てた、上原隆さんの文章をたまらなく読み返したくなる。

《私は「人を楽しませる」ことが不得手だ。デートの計画を立てることができない。おいしい食事に興味がないし、情報誌を事前に読んだりする努力もしない。そういうことが苦手なのだ。だから、いつも彼女がデートの計画を立て、私はそれに従うことになる。正直なところ私が行きたいところといったら、本屋ぐらいのものなのだ。(中略)それに加えて私は「今を楽しむ」ことができない貧乏性なのだ。》(「二人でいる時にひとりになるには」/上原隆 著『にじんだ星をかぞえて』2009年6月 朝日新聞出版)

 市井の人の声に耳を傾けた上原さんのノンフィクション・コラムが好きなのだけれど、こうした上原さん自身の声に耳を傾けてみると、また別の意味での心地よさを感じることができる。じぶんだけだと思い込んでいたふつうから、もう少しだけ広い範囲での普通を手に入れたような心地よさ。だれにも同調なんて望んでいないので、こうして読み返すことだけでこの感覚を得られるというのがうれしい。ときどき引っぱり出しては、ほっとする。

 ぼくもかなりの貧乏性で、今を楽しめずに心だけどこか別の場所へとふらふら出かけてしまうことがある。見抜かれると「本屋さん行きたいんでしょ?」といわれる。

 二人でいる時にひとりになりたいなんていうワガママは、たぶんふつうではない。わかっている。でも、そういうワガママをふつうのこととして受け止めてくれるふつうもある。なんてことを云うと連れ合いに怒られそうだけれど、お互いにとっての「ふつうの妥協点」のようなものが付き合いの中には必ずあるのだとおもう。 その妥協点から大きく逸れてしまわないようにさえ気遣えば、案外うまくいくものなのだ。そうでも思わなければ、長くはもたない。

 きょうも数冊の本を買い、元気いっぱいになって家へ帰る。珈琲を淹れるのはぼくの仕事なので、お湯を沸かし、豆を挽いてから丁寧にハンドドリップする。彼女が「おいしいね」というのを聞いてから、ぼくはひとりになって本を読む。これがぼくらにとっての「ふつうの妥協点」であると信じて。

にじんだ星をかぞえて (朝日文庫)

にじんだ星をかぞえて (朝日文庫)

 

 

 

はみだしものでかまわない。

 あまりにあれこれありすぎて、何をどうすればよいのかよく分からない、そんな時期がしばらく続いていた。雷雨のような数ヶ月だったけれど、決っして乗り越えようとはおもわなかった。そんなときは、そんなときにしかできないことを考えたり、そんなときだからこそ出合える本を読んだりするに限る。というよりも、そんなふうにしかできないのだから仕方がない。やり過ごすでもなく、乗り越えるでもなく、いつもと同じように行動する。もちろん晴れの日に比べれば、些かの思い切りが必要にはなるけれど、躊躇はしない。いつだって雷雨決行なのだ。

 そんな雷雨のなか、歴史家・渡辺京二さんと、津田塾大学・三砂ちづるゼミの学生さんたちによるセッションを記録した『女子学生、渡辺京二に会いに行く』(2014年 文春文庫)という本を読んだ。生きた言葉で語られる、生きた思想書。雷雨のなかで読むのに、うってつけの本だった。

《みんなが相互扶助できることが望ましい。(中略)社会全体の中でお互い助け合って生きていくという、そういうあり方を作ることが必要だと思うんです。(中略)小さなつながりの場所を作るといいと思うんですね。(中略)たとえば喫茶店を兼ねた小さな本屋みたいなのを仲間の力で何人かで出資して、作るということだけでも、なかなかたいしたことなんです。障害者問題があるとすれば障害者の人にもそこに遊びに来てもらう。自分の一生の中で、今日は暇だけど何しようかなというときに、うん、あそこに遊びに行こう、あそこに遊びに行ったら、誰々と会えるんじゃないかなと、そう思える場所があるということ自体がすばらしいんです。》(「はみだしものでかまわない」/渡辺京二 著『女子学生、渡辺京二に会いに行く』)  

 昨年の十一月で東京ベンチがクローズし、ぼくはいま、障がい者の就労支援に携わっている。古書肆スクラムという古本屋として、この事業を進めていくつもりだ。ベンチのことは残念だったけれど、あの場所でやろうとおもっていたことも、こうして新しく始めたことも、根幹は何も変わっていない。もっと云えば、あいおい文庫の頃から何ひとつ変わってはいない。むしろ一歩ずつ着実に前へと進んでいるという気がしている。それでもやっぱり、誰かに迷惑をかけたり、がっかりさせたり、打ちのめされたりしていると、じぶんは一体なにをしてきて何処へ向かおうとしているのか、時折わからなくなる。そんな時にすっと背中を押してくれるのが渡辺さんの言葉だった。

 小さなつながりの場所のことは、このブログのなかにも書いてきたし、耳を傾けてくれるひとにはいつも同じように話をし続けてきた。それは特別に真新しいことではないし、そういった場所は街のなかにぽつりぽつりと出来てきている。ただ少しだけ違うとすれば、それを福祉という枠の中で、教育とか、行政とか、管理というものから飛び出すようなスタイルで街のなかに作りたい、というところだろうか。はみだしものでもかまわない。それはまだ終わっていないし、ベンチだってまだ終わったわけではない。このブログの名前にも付けた、世界一ちいさな鳥、ハチドリ(Hummingbird)のように、ちいさな力にもまだまだやれることはあると信じて、これからも羽ばたき続けていきたいとおもっている。

《自分は何をしようと思っていたのか、ということだけは忘れなければいいんじゃないでしょうかね。》(はみだしものでかまわない)

女子学生、渡辺京二に会いに行く (文春文庫)

女子学生、渡辺京二に会いに行く (文春文庫)

 

 

 

 

 

東京ベンチの真面目な話。

 江戸川区にある瑞江という街に、「東京ベンチ」というブックカフェとデイサービスを融合させた新しいスタイルの場所(ケアブックカフェ)をつくった。職場でもなく家庭でもない、もう一つの居場所(サードプレイス)として、世代や人を選ばない居心地の良い空間づくりを目指している。

 なんで江戸川区に?とよく訊かれるのだけれど、この辺りは子どもやお年寄りが多く、水と緑の公園も多い。そんな公園のベンチを囲んで将棋を指しているおじいちゃんたちを見かけると、なんだか懐かしいようなあたたかな気持ちになる。いいなあ、こういう空気感。こんな場所に昔から住んでいる人たちが、この先もずっとこの地で住み続けることができたらいいし、ぼくのように他の地域から移ってこられた方にとっても居心地のよい懐かしさを感じ続けられる、そんな地域形成であってほしいと心からおもい、この場所に決めた。

 ぼく自身、実は昨年末から江戸川区民になっている。街と一緒に成長していくためにはここしかない、そう強く決心してから移住するまで本当にあっというまだった。出身は横須賀なのだけれど、今ではその生まれ故郷と同じくらい江戸川に対する愛情はふくらみ、この変化していく社会の中で残していくべき「街や人とのつながり」を、この地域で大切に育てていければと切に願っている。

 東京ベンチの「ベンチ」のことについては、この前の記事にも書いたのだけれど、大事なところなのでもう一度。

 たとえば、疲れたなあとか、ちょっと一服しようかとか、世間話したり、とりあえず腰かけたいなというとき、そこにベンチがあったらいいなとおもう。街のどこかにぽつんとあって、老若男女問わず誰でもおかまいなしに利用できる当たり前な場所。そんな「ベンチ的な場所」に気兼ねなく人が集まることができて、そこで刺激しあったり、支えあったり、一緒に笑ったり学んだりしながら共に成長できたらいい。年を重ねることで、時代が変わっていくことで、人が離れたり離されたり、居場所が狭まったり無くなってしまうのはおかしい。若者だって年寄りだって、草臥れたときにはちょっと腰かけて、一服して、一緒になんでもない話をしたりして笑い合えたなら、また気分を変えて新しい一歩が踏み出せるかもしれない。そんな場所をつくりたい、ずっとそんなふうにおもっていたことをカタチにしてみたのが東京ベンチであり、それこそがうちの理念でもある。

 とはいえ、「なんだ、福祉施設か。じぶんとは関係ないな」とおもわれてしまう方も多いことだろう。しかし、ここは紛れもなく普通のブックカフェ。こだわりのコーヒーと古本を用意した、普通のブックカフェ。カフェだけの利用はもちろん、本だけ買って帰るというのも全然OKなのである。

 コーヒーは厳選したこだわりの豆だけを使用して焙煎した東京ベンチブレンド。ご注文いただいてからその都度挽いて淹れるので、少し時間はかかるけれど卒倒しそうなほど香り立つ。一口飲めば、たちまち違いの分かる男(女)になれること間違いない。テラスにはベンチとテーブルをご用意し、外からの窓口ではテイクアウトもやってます。至福の時をどうぞ。

 本は買うことも読むこともできる。店主の趣味に若干の偏りがみられるかもしれないけれど、できるだけ多くの方に楽しんでいただけるよう、あらゆるジャンルの本を用意したつもりである。あいおい文庫時代からの「親子で楽しんでほしい」という気持ちは変わっていないので、絵本や児童書は多めに取り扱っている。また、友人の古本屋さんや大好きなライターさんに一部提供したことで、偏りの中にも変化のあるおもしろい棚になっているのではないかとおもう。さらには、東京ベンチのロゴをデザインしてくれた武藤良子さんの絵も飾らせてもらえることとなり、このどこにもなかった空間はますますスペシャルな場所として彩られている。本が好き、古本が好き、コーヒーが好き、そんな匂いや空間が好き、ひとつでも当てはまる方はぜひ一度遊びに来てみてください。きっと気に入っていただけるかとおもいます。

 夕方から夜は、晩酌してから帰れるような時間にしたいとおもっている。ひとりぼっちのしんみりした夜も悪くないものだけれど、たまには誰かと話をしながら一杯やって寝るというのも悪くないはず。足の不自由なお年寄りにとっての赤提灯は、近くにあるけど遠い場所。でも、うちならケアもできるし車で送ってもあげられる。そんなに大したものも出せないけれど、その時間で少しでも何かを埋めてもらえたらいいなとおもう。この時間でもやはり、同じように世代や時代や日常に縛られない空間をつくりたい。

 枠を超えたい。奇抜なことがしたいというのではなく、そもそもなくてよかった枠を超えてしまいたい。それが当たり前になったらいい。

東京ベンチの「ベンチ」のこと。

 痩せるのはとても大変だけれど、太るのはとても簡単だ。

 体質や健康状態にもよるのだろうけれど、これは多くの人にとっての真理なのではないかとおもう。たとえば好きなものを好きなだけ食べて、好きなときに好きな酒を好きなだけ飲んでいると、かなりの割合で太る。嘘だとおもうのなら試しにそういう生活を3ヶ月くらい続けてみるといい。あっというまに、ギュッとつかめるくらいのお肉がお腹につくから。 

 この真理のこの上なくやっかいな点は、「これはまずい」とおもって好きなものを好きなだけ食べたり飲んだりする生活を慌ててやめたとしても、そうは簡単に元に戻らない(お腹の肉が急に消えてなくなったりはしない)ということである。というわけで、最近また悩みの種が増えて困っている。

 さて、東京ベンチについての説明を少しずつしていこうとおもうのだけれど、どこからどうはじめたらよいのかと迷う。あまり小難しいことを書いてもおもしろくないだろうし、かといって端折り過ぎても伝わらない。なので、とりあえずはコンセプトの部分、つまりは東京ベンチの「ベンチ」のことについて書いてみるところからはじめたいとおもう。

 疲れたなあとか、ちょっと一服しようかとか、世間話したり、とりあえず腰かけたいときなどにあったらいいなとおもうのが、ベンチ。街のどこかにぽつんとあって、老若男女問わず誰でもおかまいなしに利用できる当たり前な場所。そういう、「ベンチ的な場所」を東京のどこかにつくりたいとずっとおもっていた。おもっているだけではつまらないので、そんな話を近しい人たちによく語るようになった。聴いてくれた人たちは、チャンスやたくさんのアイディアをくれた。そうこうするうちに、おぼろだったイメージは色濃く具体的なものとなり、今ではベンチ的な場所の設計から工事という段階にまで進んでいる。これも縁のチカラなんだろうな。すごい。

 ある日、ぼくはベンチ的な場所についてのいくつかの相談をするために、MさんとSさんに声をかけた。この人たちと飲みながら交わす冗談みたいな会話のなかには、いつもハッとするようなアイディアが隠れている。そのときはまだおぼろで、「ベンチ的な場所」というイメージを具体的なコトバとして表現出来ていなかったにも関わらず、ベンチという単語はわりとすぐ出てきた。「誰でもフラッときて憩えるような場所っていったら、ベンチじゃない?」「東京でやるんだから、東京ベンチ。」すぐに紙とペンを取り出して、「東京ベンチ」と書いてみる。うん、いいよ。もう一回見てみる。うん、やっぱりいい。これだよ、東京ベンチ!

 そんなふうにして、東京ベンチは誕生した。おもいのほか簡単についてしまった名前なので、お腹の肉同様そう簡単に消えてなくなったりはしないだろう、と信じている。

東京ベンチでつかまえて。

 ものすごくひさしぶりに書くので、なんだかとても緊張する。と、この一行だけはスラスラ書けたのだけれど、どうにもここから先が進まない。しかたがないので音楽を聴いたり本を読んだりしていたら、窓の外はすっかり暗くなっていた。

 時間が経つのは本当に速い。だって、あれからもう半年以上も経つんだからなあ…

 思うところあって昨年の10月に「あいおい文庫」を去り、現在は新天地にて「東京ベンチ」というケアブックカフェを準備している(2014年夏頃オープン予定なのだけれど、それについてはまた改めて書こうとおもう)。ケアブックカフェってなに?みたいなことも含めて、とにかくあれこれ説明しておかなくては伝わりにくいことばかりなのだけれど、いまのところは「あいおい文庫のsoulをそのままに、本を通して老若男女問わずたくさんの人がつながれるような街の居場所づくりを目指している」ということくらいしか書きようがない。少しずつ、ゆっくりと、新しくやろうとしていることや大好きな本のことなどを書いていきたいとおもっている。

 とりあえず、去年まで書いていた「日々の考え、あいおい文庫の場合。」をインポートして、このブログ「東京ベンチでつかまえて。」をスタートしてみることにした。まったく新しいidで始めようともおもったのだけれど、あいおい文庫のsoulを小さく見えるかたちで残しておきたかったので、そのまま残すことにした。それはぼくの原点であり、これからも大切にしていきたい大事な場所でもあるから。

戸越銀座でつかまえて。

 仕事のことであれこれ考えなくてはならず、時間はあるのに余裕がない。そういうときは、とにかく好きなものを好きなだけじっくり読む。読んで、読んで、また読み返す。


 ついこのあいだ出たばかりの星野博美さんの新刊『戸越銀座でつかまえて』(2013年 朝日新聞出版)を、しつこいくらいなんども読み返している。
 これはすごい。ほんとうにすごい。普通ならあまり書きたくないような自らの来し方を振り返り、その心情を赤裸々に書いてしまう辺りはほとんど私小説。時々たじろいだりしながら読みつづけているうち、著者のことをますます好きになってしまった。


 この本の内容紹介を見てみると、「旅する作家が、旅せずに綴った、珠玉のエッセイ」とある。なるほど。だけど、どうだろう。たしかに物理的な旅には出ていないけれど、読んだりお話したりする限りでは、星野さんという人は年がら年中思考の旅に出っぱなしのようにおもえる。なんといっても、そこが魅力の人なのだから。


 《…もう一つよくするのは、迷子になる練習だ。わざと当てずっぽうに歩いて方向感覚をなくし、空や町の変化を見ながら家に帰る道を探す。これも続けていると迷子になるのが怖くなくなり、「迷ったらどうしよう!」という人生の不安が一つ減る。しかしこれらのことは、あくまでも静かに遂行することが大切だ。あまりおおっぴらにやると、世間からはへんだと思われる。》(星野博美 著「戸越銀座でつかまえて」)


 一望俯瞰しながら独特な視角で物事を切り取り、そこから顕微的に追求していく。そんな著者の思考の旅に、あてはない。さまよっている書き手よりも、地に足ついている(と思い込んでいる)読み手のほうがずっと不安になってくる。
 わざとあてもない旅にでて、わざと迷子になってさまよう。それは一見すると不安定な行動のようだけれど、その実は背後に揺るぎのない哲学があるからこそできる試みなのだとおもう。そのための不都合というのもやはりそれなりにあるのだけれど、著者のライフスタイルの上では大した問題にはならないようだ。いや、むしろその不都合さをプラスに活用しているからこそ、これだけの作品をいくつも世に出すことができるのだろう。


 人生の不安を減らすために、わざと迷子になる。これを散歩の途中で試してみるという人がほかにもいるのかどうか分からないけれど、物事を徹底的に調べたり考えたりするために、あえて未知の領域に身を投じてみるという人は少なくないようにおもう。そんな人いないよ、ということであれば、ぼくも世間からへんだとおもわれるタイプなのだろう。


 不安だとおもうことのほとんどは、経験不足や無知からくる。不安なら確かめられるうちにとことんやっておけばいいものを、なんだかんだと理由をつけてそれをしないからいつまでも不安がつづく。ようやく決心がついたとしても、場合によっては周囲からへんな目で見られることがあるし、近しい人から目くじら立てて止められることだってある。たしかに迷子になる練習というのは、あまりおおっぴらにやらないほうがいいみたいだ。


 近所の商店街のこと、八百屋のおばさんのこと、近所のおばあちゃんのこと、おもいっきり日常生活に立脚して語られる瑣末なことのなかに、著者のもつ深く凝縮された哲学がつまっている。観念的な世界に留まらない、圧倒的に正直な生活観がとにかく胸を打つ。
 きっとこの先も、ちょくちょくこの本を読み返すことになるだろう。笑ったり、じぃんとしたり、怒ったり、首を傾げたりしているうちに、いつのまにか考えるヒントを得られているような、そんな一冊だ。
 何も考えないということについて深く考え、何も考えずに明日は過ごそう。


 《人間は誰もがいつ死ぬかわからず、いま目の前にいる家族や友人と会うのはこれが最後になるかもしれない。しかし毎日そんなことを考え、会社へ行く夫を見送るたびに涙を流して別れを惜しみ、友人と会うたびに遺言を伝えていたら身がもたない。だから死については体よく忘れ、この日常が永遠に続くと思いこむこと。つまり何も考えないことが日常を穏便に送る秘訣だ。》(星野博美 著「戸越銀座でつかまえて」)

戸越銀座でつかまえて

戸越銀座でつかまえて