ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

ほどほど。

今日からお酒を控えることにした。
でも、お酒を呑まないことがストレスになったりしないように、少しは呑む。
なんでもそうだけれど、「ほどほど」が大切だ。
どんなに大好きなことでも、「ほどほど」がいい。
いや、大好きなことだからこそ「ほどほど」にしなくてはならない。
どこかで無理が生じ、どこかに歪がでる。
植木等じゃないけれど、「わかっちゃいるけどやめられない」だなんて暢気なことを云っていると、後々とんでもないことになる。とんでもないことにならないと気づけなかったりする…。


本の話になるが、「ほどほど」を超えたために人生台なしとなった者を書いた小説は多く、たいていはどれも面白い。台なしの人生を送る主人公というのは、実に滑稽で生き生きとしているのだ。ウキウキした人が主人公では書かれない、心の奥のザラザラしたところまで細かく描写される。そもそも、人のアンテナは幸福よりも不幸のほうにチャンネルを合わせやすい傾向があるように思う。歓びを分かち合うという設定よりも、共感や同情から入る"人の不幸は蜜の味的な設定"のほうが、読んでいて物語に広がりがでるのだ。ドン底から這い上がって掴み取る幸せのほうが、刺激的で幸福度も増す。


南アフリカの作家J・M・クッツェーに「恥辱」という小説がある。
大学教授の中年男が、教え子に手を出したところから始まる転落人生物語。
ありがちな設定。
「ほどほど」の人生を送っていたつもりが、ひょんなことから逸脱してしまう。
ありがちな人生。
とんでもないことになってみてようやく気がつき、自分の人生を見つめ直す。
これも、ありがち。
そんなありがちなことが、ありえないくらい丹念に、繊細に、リアルに書かれている。
いやな気持ちで終わらない、いい小説だ。

恥辱

恥辱

いつも「ほどほど」にやってきたはずなのに、実は「ほどほど」を超えていることがある。
意識して超えていたわけじゃないだけに、このときは痛い。
転落人生を送らないためには、よい友人やパートナーをもつことだろう。
そして、なにより「聞く耳」をもつことだ。
そうすれば「ほどほど」を超えて転落するようなことはないはず。
仮につまづいたとしても、支えてもらえるだろうし、逆に支えてもあげられる。


「ほどほど」にしたほうがいいですよ。