ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

スモーキー・マウンテン。

子どもに何かを伝えるというのはとても難しい。十分に気をつけていないと、親の価値観によって事実が歪曲して伝わったり、ものの見方が偏って伝わってしまうということもあるだろう。たとえば、それがよいことなのか悪いことなのかよくわからないのだけれど、ダラダラと遊びながらご飯を食べようとする子どもたちに、ぼくは少しこわい顔で「スモーキー・マウンテン」の話をすることがある。ちくりと痛みを感じつつ。


スモーキー・マウンテンというのは、フィリピンのマニラにあったスラムのことで、腐ったゴミの山から出るガスが自然発火し、絶えず煙が昇っていたところからそのように名付けられたらしい。もともとその地区は漁村だったのに、いつのまにか焼却されないゴミの投棄場となってしまった。毎日大量に運び込まれるゴミの山からリサイクルできそうなものを拾って売って日銭を稼ぐ貧しい人たちが住み着き、そこでは小さな子どもからお年寄りまでが文字どおり命をかけて暮らしていた。ゴミの下敷きになったり、その他いろいろな事故に巻き込まれたりして亡くなる方は少なくない。それほどのリスクを冒して拾い集めたゴミなのに、売ってもせいぜい三日に一度くらいしかご飯を食べることができず、それだってお腹一杯食べられるというわけではない。ずいぶん前に政府によってスモーキー・マウンテンは閉鎖されたのだけれど、住居の保障はされても生活の保障まではされないため、けっきょくまた別のゴミ捨て場周辺に移り住んでゴミを拾う人は集まり、同じようなスラムが生まれる。メシを食うために、生きるために。


どれほど自分たちが恵まれているのか、ということではなく、生きるということがどれほど大変なことなのか、今日も茶碗一杯のメシが食えるというその驚異について、ときどき身振り手振りもまじえながらぼくは真剣に語る。正しく伝わるまでにはもう少し時間がかかりそうだけれど、それが「別の世界の物語ではない」ということは理解しているようだ。この話をすると急にまじめくさった顔をして、一所懸命食べようね、などといって黙々と食べはじめる。まあ、三日も経てば忘れてしまうのだけれど。


今のところは「なにを伝えるか」ということよりも、「どう伝えるか」という視角に重きを置いて伝えるように心がけている。自分だけが物語の反対側(安全圏)にいるのだと勘違いしないように、ものごとを多面的に見れず偏った見方にならないように、特定の誰かを吊し上げるような伝え方にならないように、ぼく自身の視角をチェックしながら慎重に話をする。子育てとは、自分の内面を見つめるということに他ならない。だから、痛みが伴う。