ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

波を切って漕ぎ続ける。

アメリカ文学の名作「グレート・ギャッツビー/スコット・フィッツジェラルド 著」を、ぼくは青い春の頃からずっと大好きでなんども読み返してきた。その魅力は中年となった今でも色褪せることなく、あいかわらず「なくてはならない大切な小説」として読み返している。せつなくて、やるせない、この救いようのない物語について、ぼくなりにヒトコトでいわせてもらえるなら、「男らしい男の悲しすぎる物語」といった感じになるだろうか。
男というのは、さっぱりしているようで意外に過去にこだわっていて面倒くさい。今現在がどれだけ充実しているかどうかにもよるのだろうけれど、過去の仕事や女性のことなどを自慢気に未練たらしく語る男はけっこう多い。どうでもいいような細かいことにイチイチこだわり、嫉妬したり、見栄や虚勢を張ったり、「男らしさとは」みたいなことを斜め上から語るのはたいてい男だったりする。だから「男らしさ」みたいなことを取り立てていうとすれば、前述したそういう女々しい感じこそが男らしさそのものにあたるのではないかとぼくはおもっている。
この物語に出てくるギャッツビーさんも、互いに燃えるような恋をしていたのに別れざるをえなかった女性のことが忘れられず、彼女の家が見られる対岸に屋敷を買い、いつか彼女がやってくるのを期待して夜な夜なパーティーを開いていたりする男らしい男の一人である。このいじらしさ、よく分かる。まったく男らしい。そんなこんなでそのうちなんとか彼女との再会を果たし、やっとこれから待ち焦がれた夢の生活がはじまるぞ、というところで物語は悲しすぎる結末を迎える…。

≪こうして私たちは、流れに逆らう小舟のように、絶えず過去へ過去へと押し流されながらも、波を切って漕ぎ続けるのだ。(「華麗なるギャッツビー」フィッツジェラルド 著/1957年2月 角川書店)≫

これは、その悲しすぎる「グレート・ギャッツビー」の最後の一文。しんしんとずっと読んできて、この最後の部分までくると、どうしても男泣きしてしまう。どうにもこうにも痛いくらいに泣けてくる。
村上春樹の翻訳でこの小説のファンが増えたようだけれど、確かにこういうコロキアルな部分が持ち味の作品は、新しく翻訳された村上訳のほうが読んでいてすんなりと入ってくる。ずっとぼくのスタンダードだった野崎孝の訳だってもちろんいいのだけれど、今読むのであればやっぱり村上訳のほうがいいかな、なんておもう。とかなんとか云いつつ、上に引いているのはどちらでもない大貫三郎の訳。どうしてもこの最後の一文だけは大貫訳のほうがしっくりきて、人生のあらゆる場面でこの訳のこの言葉を思い出してしまうのだ。
絶えず過去へ過去へと押し流されながらも、波を切って漕ぎ続ける自分の姿を、海鳥の目線でぼんやりと眺めながらこれからの人生をおもう。


≪So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.≫


グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)