ハチドリのとまる場所。

大好きな本のこととか日々の考えなど、あれこれ。

こころが折れそうになったとき。

こんな仕事をしていると、将来のこと、というよりも老後のことをよく考える。
考えれば考えるほど、アカルイキモチではいられなくなる。「どうせ、みんないつかは死んでしまうのだから、好きなことやって、おもうように暮らしたほうがいい」なんて、年がら年中おもってはみるものの、なかなかそんなふうにわりきって生活を変えることはできない。なぜかといえば、二進も三進もいかない他人の老後の現実を、仕事上で毎日のように目の当たりにしているから。たとえビンボーでも、なんとか生活ができるのであれば、おもうがままに生きたい。やりたくもないことをやって死んだように生きていくくらいなら、いつ死んでもいいような暮らしを生き生きとしたい。自分のやりたいことだけをやって食っていきたい。そんな青くさいことをぬけぬけといいたくなるのは、実際にそうやって生きている人たちに憧れているからでも、毎日の生活に疲れているからでもなく、どうしても将来と老後を直結してしか考えられなくなっているからだ。あまり先のことを考えて行動するタイプではないのだけれど、老後のことがどうしても頭から離れない。もっとおもうように今を生きたい。やりたいこと、まだやれることがそこにある。このままでいいのだろうか…。でも将来のことを考えると…。自分一人のことでは済まないし…。ぐるぐるグダグダと思考の迷路にまよいこんでしまう。


上原隆の『心が折れそうになったとき/2012年5月(NHK出版)』を読んでいたら、小説家の打海文三との話が心に落ちた。

打海は、将来のことを考えては生きていけないという。昨日の小さな喜びを今日につなげ、今日の喜びを明日につなげるようにして生きて、その先に将来はあるのだと。

打海文三の著作に「時には懺悔を」という、障害をもった子どもと暮らすとはどういうことかが主題となった探偵小説があり、その障害をもった子どもの場面は自身の息子がモデルであるという。それを聞いた上原は不用意な発言はできないと言葉に詰まるが、そんな上原の気持ちを察した打海は何でもきいてくれと微笑む。上原は無神経な質問だとおもいながらも、「将来、自分が歳をとったときのことを考えたら、暗たんとした気持ちにならないですか」と訊く。打海はその質問に対し、将来のことを考えては今日は生きられないと答える。それは、目も見えず、言葉もしゃべれず、手足を動かすこともできない重度の障害をもつ子どもの世話をし続けなくてはならない自分の未来に暗澹とするのではなく、ひげボーボーの五十男となった息子のひげを剃ってやるような親子の将来をうまく思い描けない、ということなのだとおもう。そんな光景が頭をよぎることと、具体的に将来を思い描くこととは、まったくの別物なのだろう。打海はいう、「昨日かわいければ、この子は今日もかわいいだろうし、今日かわいければ、明日もかわいいだろう。この子が五十になったときも、やっぱりかわいいと思ってるんじゃないかな。」と。

こころが折れそうになったとき

こころが折れそうになったとき

将来のために、老後のためにと、不安定な未来を回避するために計画だてて現在を生きていくことは大切なことだ。ただ、将来のために現在がある生活というのは、それ自体が目的のようにおもえてなんだか息苦しい。現在が手段になるような生活なんて、ぼくにはとても耐えられそうもない。
今日かわいければ、明日もかわいいだろうという打海のキモチがよくわかる。昨日をおもいだし、今日を生き、明日をおもう。そんなふうに生きていれば、いつのまにか老後はすぐそこにやってくるのだろうか。そのときの自分はいったいどうなっているのだろう、やはりそこへキモチは傾く。やっぱり、ある程度の「将来」をもっていなくては不安が残るのではないだろうか。そのためには計画立てて…ぐるぐるぐるぐる…。あいかわらず不安だし、わりきれないキモチはしこりのまま残っている。


今もまだ光は見えてこない。光は見えてこないのだけれど、薄暗さに目が慣れてきたせいか、足もとの地面はだいぶん見えてきたようにおもう。